名前 | 李業 |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
勢力 | 袁術 |
コメント | 袁術の謀臣 |
李業は正史三国志に登場する袁術の謀臣です。
なぜ、李業が謀臣だと言えるかですが、何夔伝の本文に次の言葉があります。
「何夔は袁術の謀臣である李業に向かって述べた」
上記の記述から李業が、袁術の謀臣だった事が分かります。
よく「袁術の軍師」は誰なのか?という話しになる場合があります。
三國志演義では楊大将が袁術の軍師的な役割をしている描写がありますが、史実では袁術の軍師が誰なのか?分からない状態です。
袁術が仲王朝の皇帝になるのを諫めた閻象などは、軍師っぽいとは言えます。
しかし、実際の袁術の軍師は誰だったのか?などは、はっきりとせず李業だった可能性もあるはずです。
今回は記述は少ないですが、袁術の謀臣である李業を解説します。
袁術の謀臣
李業がどの様な人物だったのかは、不明と言う他にないでしょう。
何故なら、記録が全くないからです。
ただし、袁術の臣下には苦の戦いで散った李豊がいます。
李業と李豊の関係は書かれていませんが、一族の可能性も残っているはずです。
ただし、三国志において李姓は李厳、李傕、李異、李粛など、無名の人物も含めれば、かなり多いと言えます。
それらを考慮すると、李業と李豊は同姓というだけの関係だと言う事も十分に考えられるはずです。
尚、李業は袁術の謀臣とはされています。
謀臣と言えば、曹操配下の郭嘉、程昱、賈詡や劉備配下の龐統、法正などを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
しかし、李業がこれらの人物と同じような策を進言したのかは分かっていない状態です。
実際には、李業が策を進言しても、袁術が採用しなかった可能性もある様に思いました。
蘄陽の戦い
李業が蘄陽の戦いに参加した記録があります。
蘄陽は曹操の勢力下にあり袁術は橋蕤と共に、蘄陽を攻めたわけです。
この時の袁術軍に李業も参陣していたのでしょう。
蘄陽の戦いで袁術は、何夔を脅迫して味方とし、蘄陽を説得させ降伏させようとしました。
この時に、何夔は李業に次の様に述べています。
何夔「昔、柳下恵は国を討つ計画を聞き、憂慮し次の様に述べたと聞いております。
『国を討つ事は仁者には相談しないと聞いております。
国を討つ言葉が、なぜ私に届いたのでしょうか』と申したと」
何夔は李業に「自分に相談するべき事ではない」と述べた事になります。
この後に、何夔は灊山に逃れたとあります。
この記述を見ると、袁術に何夔を味方に付ける様に進言したのは、李業だった可能性もある様に思います。
李業が自分で何夔を説得すると述べ面会しますが、断れらたパターンです。
袁術は兄の袁遺を殺害しており、袁遺の母親は何夔の叔母であり、何夔を恨んだ話もあります。
しかし、袁術は何夔に危害を加えなかった話もあり、李業が何夔の事を上手くフォローした可能性もあるでしょう。
尚、李業との逸話がある何夔は、後に曹操に仕え張遼と共に賊を討伐するなど活躍した話もあり、曹操の死後は曹丕に仕えています。