李申成の名は正史三国志の陳寿が書いた本文には、名前は一切登場しません。
李申成の名が登場するのは、裴松之が残した正史三国志の注釈である魏略の方です。
ただし、李申成の名前は劉勲の最後の時に1回名前が挙がるだけの存在となっています。
李申成の告発により、劉勲は処刑されるわけですが、李申成がどの様な理由で劉勲を告発したのかは分かっていません。
思い上がる劉勲
李申成が告発した劉勲ですが、曹操や袁術などと交流があり、最初は袁術の配下として廬江太守にもなっています。
劉勲は袁術死後に旧袁術軍を配下に治め、鄭宝の軍勢も劉曄から引き継ぎますが、孫策に急襲され西塞山の戦いで敗れて曹操を頼りました。
曹操は劉勲を重用し列侯に任命し、平時も出兵の際も議論に加えさせるなど優遇していたわけです。
ただし、正史三国志には、次の記述が存在します。
「劉勲は曹操との旧縁を頼みとし思い上がり、法律を犯し誹謗の言葉を吐き捨て、李申成に告発される事になった」
上記の記述から、劉勲はかなり態度が悪かったとも言えます。
劉勲が曹操陣営に来てからは、楊沛を恐れたり、杜畿に大きな棗を要求したり、司馬芝に法律を犯した自分の部下を見逃す様に手紙を送るなどの逸話が残っています。
劉勲は功績は不明ですが、悪名がかなり高かったとも言えるでしょう。
こうした中で李申成は劉勲を告発する事になります。
劉勲を告発
李申成に告発された劉勲に関しては、魏略に次の記述が存在します。
「劉勲は逮捕処分され、一族の劉威も免職にされた」
李申成の告発で劉勲の罪が明るみとなり、劉勲は失脚したと言う事です。
さらに、一族の劉威も免官となっています。
劉勲がどの様に処分されたかですが、正史三国志に「劉勲は処刑された」とする記述があり、劉勲は李申成の告発により最後を迎えたとも言えるでしょう。
李申成の勇気ある行動が劉勲を失脚させたとも言えます。
劉勲は曹操から可愛がられていた話しもあり、一歩間違えれば李申成の首が飛んだ事も考えられます。
そうした状況の中で、李申成は劉勲の態度を問題視し、告発したのでしょう。
李申成が告発した理由
李申成は劉勲を告発した理由を考えてみました。
李申成の告発には司馬芝が大きく関わっているのかも知れません。
劉勲の部下は司馬芝の管轄で無法行為を行っていましたが、劉勲は処分しない様に司馬芝に手紙を出していたわけです。
しかし、司馬芝は劉勲の手紙も返信せず、劉勲の部下を法律に基づき処分してしまいました。
正史三国志の司馬芝伝だと、この後に劉勲が不法で処刑されたとあります。
魏略に記述を合わせてみると、自分の部下が司馬芝に処刑された事が不満であり、誹謗中傷を繰り返したのかも知れません。
さらに言えば、司馬芝を処分してくれない曹操に対しても、誹謗の言葉を向けた可能性もあります。
曹操も劉勲の行動を問題視する様になり、こうした中で李申成は劉勲を後発した様に思いました。
真実は不明ですが、李申成の告発で劉勲は命を落としたと言う事です。