その他 三国志 魏(三国志)

劉勲は運はあったのに自滅

2022年5月27日

スポンサーリンク

名前劉勲(りゅうくん) 字:子台
生没年不明
時代三国志、後漢末期
勢力袁術曹操
年表199年 西塞山の戦い
コメント運はあったが自滅した
画像三国志14(コーエーテクモゲームス

劉勲は袁術曹操に仕えた人物です。

劉勲は知名度は低いかと思いますが、運の良さで言えば三国志の中でもトップクラスだとも言えます。

劉勲は一時は旧袁術軍や鄭宝の軍を吸収し、揚州で最大の勢力となりました。

しかし、劉勲はせっかくの幸運を生かす事が出来ず、孫策の策略に引っ掛かり、劉勲の独立勢力は消滅に向かいます。

劉勲は西塞山の戦いで孫策に敗れた後は、曹操を頼りますが、傲慢な性格が禍して残念な最後を迎えました。

曹操と知り合う

正史三国志の注釈・魏略によれば、劉勲の字は子台であり、琅邪の人だとあります。

それを考えると、劉勲は青州琅邪郡の出身という事になるのでしょう。

劉勲は中平年間の末に、沛国建平県の長となり、曹操と誼があったと記録されています。

曹操は三国志最大の英雄であり、無名時代の曹操と誼を結ぶ事が出来たのは、劉勲の運の強さの表れだと感じました。

さらに言えば、この時点で袁術とも関係が持てていたと思われます。

廬江太守となる

どういう経緯なのかは不明ですが、劉勲は袁術の配下として登場します。

袁術は孫策に廬江太守の陸康を討伐する事が出来たら、孫策を廬江太守にすると約束していました。

しかし、孫策が陸康の討伐に成功しても、廬江太守に任命せず、代わりに袁術が廬江太守に任命したのが劉勲だったわけです。

劉勲は孫策の功績により、廬江太守に任命されたという棚からぼた餅状態だったとも言えるでしょう。

劉勲が廬江太守に任命された理由ですが、袁術の息が掛かっていた者だったとか、孫策が若すぎると考えたとする説があります。

尚、袁術は過去に孫策を九江太守に任命すると言いながら、九江太守を孫策とせず、陳紀を任命しました。

孫策は劉勲だけではなく、陳紀の件もあり大きく袁術に失望する事となります。

袁術軍の残党を手に入れる

袁術は197年に仲王朝を開くも王朝の運営には失敗し、勢力を大きく減少させる事となります。

袁術は曹操により圧迫され行き場を失くし、袁紹の長子である袁譚に身を寄せようとしますが、道中で亡くなりました。

袁術が亡くなると、袁胤黄猗や袁術の子である袁燿らも、劉勲に身を寄せています。

さらに、旧袁術軍の残党である楊弘張勲が孫策と合流しようとしている情報をキャッチしました。

劉勲は楊弘、張勲らを待ち伏せし襲撃を行い、財物を奪い捕虜としています。

旧袁術軍の中には橋公の娘で絶世の美女だとされた大喬、小橋もおり、劉勲は幸運とも呼べる状態で勢力を拡大して行く事になります。

劉勲は旧袁術軍の勢力や金銀財宝を丸々と、手に入れる事に成功したわけです。

鄭宝の残党を配下とする

揚州で幅を利かせていた鄭宝なる人物がいましたが、劉曄は策を使い鄭宝を討ち取りました。

劉曄は鄭宝の軍を奪いますが、自ら率いる事はせず、劉勲に兵士を預けようとしたわけです。

劉勲は劉曄の態度を不審に感じ怪しみますが、劉曄は次の様に述べています。

劉曄「鄭宝は規律を立てる人ではありませんでした。

そのせいで部下達は、やりたい放題で利益を得ていたのです。

今の私には資力がありませんし、鄭宝の元部下達を取り仕切る事は出来ません。

私が仕切れば恨みを持たれるのは必定であり、永らえる事は困難です。

それ故に、私は貴方(劉勲)に任せたいと思います」

これにより劉勲は旧袁術軍だけではなく、鄭宝の兵も吸収し、長江・淮河の一帯で最も強大な勢力になったわけです。

これまでの劉勲を見ていると、かなりの運の良さがあり、運だけでのし上がったとも言えるでしょう。

この時が劉勲の全盛期だったとも言えます。

孫策は劉勲の勢力が強大になるのは不快に感じていましたが、心を偽り劉勲と同盟を結びました。

慢性的な兵糧不足に陥る

劉勲は強大な兵力を有する事になりましたが、兵糧不足に陥る事となります。

劉勲の急激な兵力の膨張は、食料の供給が追い付かず危機に陥っていたわけです。

劉勲は従弟の劉偕に命じて、豫章太守の華歆などから食料の支援を要請します。

しかし、華歆の所でも食料が不足しており劉勲を援助する事が出来ず、華歆は海昬、上繚の辺りから食料を調達する様に述べました。

劉偕は海昬、上繚に向かいますが、満足するだけの食料を集める事が出来ず、劉勲に海昬、上繚を急襲する様に進言しています。

この時に、孫策も劉勲に上繚や海昬の討伐を勧めたはずです。

劉勲の元にいた劉曄は孫策に不意を衝かれる事を恐れ、難色を示しますが、劉勲は上繚に向けて出発する事になります。

しかし、劉勲と劉偕の行動は読まれており宗師たちが逃げてしまった事で、食料の調達は失敗に終わりました。

劉勲は金銀財宝がありながら、食料が枯渇し困窮する事態となっていきます。

こうした中で、孫策が劉勲打倒の為に、本格的に動き出します。

西塞山の戦い

孫策は劉勲が海昬、上繚に向けて出発した時には、江夏の黄祖征伐に向かっていたわけです。

しかし、劉勲が海昬や上繚に向かった事を知ると、軍を二つに分けました。

孫賁と孫輔に劉勲を彭沢で急襲させ、孫策自身は周瑜と共に劉勲の本拠地である皖城を奪いに掛かります。

皖城は降伏し劉勲は彭沢の戦いで敗れますが、西塞山に籠り孫策軍と対峙する事となります。

この時には孫策は独自で廬江太守を、李術にする様に働きかけており、劉勲と孫策の対立は決定的となったわけです。

この後に起きたのが西塞山の戦いであり、孫策軍では孫賁、孫輔、程普、韓当、陳武、董襲、孫権などが参戦した記録が残っています。

劉勲は荊州の劉表に使者を派遣し救援を求めると、劉表は江夏太守の黄祖に命令し劉勲を救う事にしました。

黄祖は黄射を援軍の将として派遣しています。

しかし、西塞山の戦いでは劉勲に利がなく孫策に敗れ、劉勲は曹操を頼って北方に移動しています。

西塞山の戦いで敗れた劉勲は南方での活動を終了し、北方に移った事になるはずです。

尚、劉勲の援軍に来た黄射は撤退しますが、孫策は黄祖沙羨の戦いを続けて行った記録があります。

曹操に重用される

劉勲は南方での居場所を失くし、曹操の元に帰順しますが、正史三国志の武帝紀には、次の記述が存在します。

「廬江太守の劉勲が軍勢を引き連れて降伏し、列侯に封じられた」

この記述を見ると分かる様に、劉勲は軍勢を引き連れて曹操に降伏したわけです。

この時期の曹操は袁紹との官渡の戦いの前であり、旧友の劉勲が訪れた事を歓迎したのでしょう。

曹操は劉勲に気を遣ったのか、劉勲の兄の子である劉威に州の政治の中枢を担わせた話があります。

尚、西暦213年に曹操の魏公就任を受諾する様に、要請した臣下の中に「平虜将軍・華郷侯の劉勲」の名前が見えます。

劉勲は曹操の魏公就任に賛成の立場を取っていたのでしょう。

荀攸鍾繇涼茂毛玠劉勲劉若
夏侯惇王忠劉展鮮于輔程昱賈詡
董昭薛洪董蒙王粲傅巽王選
袁渙王朗張承任藩杜襲曹洪
韓浩曹仁王図万潜謝奐袁覇

楊沛を恐れる

劉勲は曹操に寵愛されている事を頼みに、問題行動を多く犯していた話があります。

楊沛は法律に厳格な人物であり、曹操は「この男(楊沛)は手ごわいぞ」と述べていました。

劉勲や曹洪などは楊沛を恐れ、家臣達に馬を走らせて若者たちには、注意させ品行を保つ様に命じた話があります。

軍の実力者であった劉勲や曹洪であっても、楊沛は果断に処罰する事が分かっており、曹操も楊沛の処置を尊重すると思っていたのでしょう。

尚、楊沛は命令に、従わなかった曹洪の部下の脚を折り、処刑してしまった話もあります。

杜畿に棗を要求

劉勲は杜畿に対し、大きな棗を要求した話があります。

劉勲は朝廷で尊重されており、権力にものを言わせて杜畿の棗を要求したとも言われています。

しかし、杜畿は劉勲の要請には従わず、理由をつけて断りました。

後に劉勲は法律を犯した罪で処刑されますが、杜畿の権力に屈しない姿を孔子と顔回の話を用いて賞賛されています。

曹操の元に移ってからの劉勲は傲慢な逸話が多く、パッとしない存在でもあります。

劉勲の娘を華佗が治療

劉勲の娘を華佗が治療した話があります。

劉勲は河内太守をしていた時に、20歳に満たぬ娘がいましたが、膝に腫物があったわけです。

劉勲の娘の腫物は痒みはあれど痛みはありませんでした。

腫物は治りはしますが、すぐに再発してしまい、この状態が7,8年の続いていたと言います。

劉勲は華佗を呼び寄せて、娘を診察して貰いますが、華佗は次の様に述べています。

華佗「この症状を治療するのは簡単です。

米糠色の犬を一匹と良く走る馬が二頭必要となります」

現代医学で考えれば、かなり意味不明な発言ですが、華佗が名医だと評判だった事から、劉勲は言われた事を実行しました。

縄を犬の首に繋ぎ、さらに馬に犬を引いて走らせます。

一匹の馬が疲れて動きが鈍くなると、もう一匹の馬に替え、二匹の馬で三十里走らせると犬は動けなくなったわけです。

今度は人間が犬を引っ張って歩き、50里近くまで移動しました。

そこで華佗は劉勲の娘に薬を飲ませると、娘は寝入ってしまったわけです。

劉勲の娘が寝てしまったのは、華佗が麻酔を使ったという事なのかも知れません。

華佗は大きなナイフで犬の後ろ脚に近い部分を斬り落とし、切り口を腫物から少しばかり離して放置しました。

暫くすると腫物の中から蛇の様なものが出て来ると、華佗は鉄の椎を使い蛇を仕留めています。

華佗は劉勲の娘から蛇を取り出すと、長さ三寸ほどであり本物の蛇の様だったとあります。

ただし、劉勲の娘から出て来た蛇の様な生き物は目がなく、鱗が逆さまに生えていたと言います。

華佗は劉勲の娘の膝に薬を塗ると、7日で完治したと伝わっています。

劉勲の娘の話は華佗の神威ぶりを見出す逸話ではありますが、真実だとは言い難いと感じました。

曹丕の宴席に招かれる

後に魏の文帝となる曹丕と平虜将軍の劉勲、奮威将軍の鄧展が酒宴の場にいた逸話が存在します。

酒が入っていた事もあり曹丕と鄧展の剣術論はヒートアップし、遂には模擬戦を行うまでになります。

模擬戦では曹丕が鄧展を圧倒し、曹丕が曹植の様な文学だけではなく、武術も一流だったとするエピソードにもなっています。

実際に、曹丕は曹彰ほどではないにしろ、優れた剣術を持っていたのでしょう。

尚、曹丕、鄧展、劉勲の逸話は、劉勲がその場にいたとするだけであり、特に目立った動きもありません。

曹操の配下になってからの劉勲は、目だった様な活躍がない状態でもあります。

劉勲の最後

劉勲は曹操から特別待遇を受けており、征虜将軍にもなっていました。

劉勲は曹操からの特別待遇に驕り高ぶり、劉勲の部下までも法律を犯し威張っていたわけです。

劉勲の部下達は司馬芝が管轄している地域でも、無法な行為を働きます。

劉勲は司馬芝に手紙を送り、部下達の行動を見逃す様に、何度も依頼していました。

司馬芝は劉勲に手紙を返さず、法律に定められた様に処置しました。

劉勲の部下は司馬芝により、処罰を受け、劉勲も李申成に告発される事となります。

こうした事もあり、劉勲は逮捕され処刑される事となります。

劉勲は運はありましたが、行いが問題であり哀れな最後を迎えたとも言えそうです。

尚、劉勲の罪に連座して甥の劉威も官職を剥奪さました。

劉威にとってみれば、劉勲のとばっちりを受けたとも言えるでしょう。

劉勲の能力値

三国志14統率50武力63知力35政治16魅力32

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

スポンサーリンク