名前 | 許乾(きょけん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
コメント | 廬江周辺で活動した頭目の一人 |
許乾は正史三国志の本文に名前がある人物です。
ただし、許乾の名が登場するのは1回だけであり、裴松之の注釈などには一切登場しません。
さらに言えば、許乾という揚州で活動した頭目がいたとする記録だけであり、どの様な活動を行いどの様な最後を迎えたのかも全く分からない状態です。
許乾に関して分かっている事と言えば、揚州にいて一定の勢力を持っていた位の事だと言えます。
今回は正史三国志にも、名前が見える賊の親分とも言える許乾を解説します。
揚州で活動
許乾に関してですが、正史三国志の魏書・劉曄伝に次の記述が存在します。
「揚州の人物には軽はずみな男伊達や、ずる賢い荒くれ者が多く存在した。
鄭宝・張多・許乾と言った輩がそれぞれの配下を従えていた」
これを見ると、許乾は一般人ではなく、どちらかと言えば賊の頭の様な人だった事が分かります。
鄭宝が廬江を中心に活動していた記録があり、許乾や張多なども廬江に近辺で活躍していたのかも知れません。
許乾が揚州の何処かの地域で、活躍していたのは間違いないでしょう。
尚、劉曄が魯粛に送った手紙の中で鄭宝が1万ほどの兵を擁していた話があり、許乾も数千人を動かす位の実力はあったと考えられます。
三国志に登場する韓暹、楊奉などは賊ともされていますが、袁術と共に呂布を攻撃した記録もあり、韓暹や楊奉の規模を小さくし似た様な立場としたのが、許乾だったのかも知れません。
尚、廬江太守には陸康、劉勲、李術などが任命された記録がありますが、許乾がどの様にお付き合いしていたのかは記述が無く不明です。
その後の許乾
許乾、鄭宝、張多の三頭目の中で、最大の勢力が鄭宝でした。
鄭宝は長江を超えて南に向かおうとし、劉曄を名目上の頭領にしようとしますが、劉曄に暗殺されています。
劉曄は鄭宝の兵を掌握すると劉勲に兵を引き渡しています。
鄭宝が何の目的があり長江を渡ろうとしたのかは不明ですが、廬江に食料が不足し、食料を求め長江を渡ろうとしたのかも知れません。
鄭宝の事を考えると、もしかしてですが、許乾や張多なども長江を渡ろうとしていた可能性もある様に思います。
許乾や張多の記録はありませんが、鄭宝の軍は劉勲が指揮しますが、劉勲は彭沢の戦いや西寒山の戦いで孫策に敗れました。
劉勲は曹操を頼って北方に移動し、旧鄭宝の軍は孫策軍に編入されたわけです。
それらを考えると、最終的には許乾の軍も孫策の軍団に討伐されるか、帰順を行い孫策に従ったのかも知れません。
最終的に揚州は呉が治めた地域であり、孫権の時代までには許乾も呉の勢力に飲み込まれてしまった様に感じました。
許乾に関しては、記録がなく足跡を追う事も出来ず、想像に任せるほかないでしょう。