韓暹は正史三国志や後漢書などに登場する人物であり、白波賊の頭領の一人でした。
しかし、献帝を助けた功績などもあり、大将軍にまで成り上がっています。
それを考えると、韓暹は賊でありながら、後漢王朝の高官にまでなったと言えます。
韓暹は大将軍にはなりましたが、世の中を治める事が出来る人物ではなく、曹操が献帝を手中にした事で大義を失いました。
ここから先の韓暹は袁術の配下になったりしますが、呂布に寝返り略奪を繰り返し、最後は劉備の命令で張宣に斬られ最後を迎えています。
しかし、韓暹が後漢王朝の大将軍となった事実はあり、張角の黄巾賊に味方した者の中で後漢王朝で最も出世した人物だと言えるでしょう。
尚、三国志演義では韓暹が関羽や張飛に討たれた話もありますが、これらは創作であり史実ではありません。
献帝の護衛
韓暹は白波賊の頭領の一人であり、黄巾の乱の時は張角に味方し、黄巾賊として各地で暴れ回ったとされています。
白波賊は河東にいる黄巾賊が寄せ集まり出来た団体でもありました。
ただし、白波賊は山賊や野盗の類と変わりがなかったとする指摘もあります。
韓暹の生い立ちに関しては何をしていたのかは不明な部分が多いのですが、興平2年(195年)に献帝は李傕のいる長安を脱出しました。
献帝は洛陽を目指しますが、道中で困難があり韓暹がお呼ばれする事となります。
韓暹は李楽、胡才らと共に、兵を連れて献帝の一向に加わる事になります。
献帝の護衛をしていた楊奉や董承が、韓暹や南匈奴の去卑を呼び寄せる様に進言した話もあります。
献帝、楊奉、董承らは李傕や郭汜に敗れ「賊でもいいから兵が欲しい」という状態だったのでしょう。
韓暹らは献帝の護衛を行い一度は李傕らを破りますが、再度攻め込まれると敗れ去りました。
しかし、献帝を守り抜く事には成功しており、安邑まで行くと征東将軍に任命される事になります。
大将軍となる
献帝が洛陽に到着すると韓暹を後漢王朝の大将軍に任命し、さらに司隷校尉、仮節鉞としました。
大将軍になった事実だけを考えれば、この時に韓暹は後漢王朝で最も尊貴な将軍になったとも言えます。
後漢末期の大将軍と言えば何進が有名だと思いますが、何進に比べ韓暹の知名度が圧倒的に低いのは、権力を維持できなかったことが原因でしょう。
尚、韓暹が大将軍になった時に、車騎将軍には楊奉がなり、衛将軍には董承がなりました。
韓暹は楊奉や董承よりも位でいえば、上という事になります。
韓暹は後から来たのに、既にいた楊奉や董承よりも官位は上位となりました。
韓暹が一番上になったのは現役の白波賊の頭領であり、多くの兵士を持っていた事が原因だとも考えられています。
他にも、韓暹は董承を攻撃した話もあり、韓暹を一番上の大将軍に任命しなければ、暴発してしまうのではないか?と危惧した結果だとする説もあります。
尚、韓暹の活躍は歴史書に書かれていないだけで、功績は極めて大きかったのではないか?と考える人もいますが、正確な部分は不明です。
しかし、賊でしかなかった韓暹を大将軍にしなければならなかった、何らかの理由はあったのでしょう。
対立
韓暹、楊奉、董承は協力して献帝は守りましたが、3人の関係は良好とは言えませんでした。
韓暹は董承を攻撃し董承は張楊の元に逃亡し、楊奉は胡才らと共に韓暹を攻撃しようとした話があります。
献帝は詔を出し争いを防ぎましたが韓暹、楊奉、董承認の3名が不和だった事は明らかでしょう。
韓暹は大将軍になった事で気分が大きくなってしまったのか、董承の政治にまで口を出す様になっていきます。
韓暹は自分の部下達に官位を与えるなど、董承にとっては非常に嫌な存在でもあったわけです。
董承は曹操を密かに呼び寄せる事にしました。
曹操陣営でも議論が行われ荀彧が「皇帝を迎え入れるべきだ」と主張する事になります。
袁紹陣営では郭図を様子見に派遣していますが、淳于瓊らの意見を尊重し献帝を迎え入れない事としました。
曹操は献帝を保護すると、韓暹の罪を上奏しました。
これにより、韓暹は身の危険を感じ梁にいた楊奉の元に逃亡しています。
韓暹は曹操により逃亡し、大将軍の権威は失墜したとも言えるでしょう。
ただし、献帝は韓暹を「私を守ってくれた人物」だとし、罪に問わなかった話があります。
献帝は韓暹に恩義を感じていたのでしょう。
曹操に敗れる
曹操は献帝を有効活用する為に、自分のお膝元である許昌に移そうと考えました。
この時に韓暹と楊奉は、危機を感じ取り献帝奪還を考え、曹操に攻撃を仕掛けますが、伏兵により大敗しています。
これにより韓暹や楊奉は献帝を完全に手放したと言えるでしょう。。
韓暹と楊奉は献帝を失ってしまい定陵で略奪を行うなど、山賊に逆戻りしてしまいました。
曹操は梁を急襲するなどして、楊奉や韓暹は兵も失っており、曹操の前に屈する事になります。
因みに、曹操と楊奉、韓暹との戦いで徐晃が曹操に降る様に進言した話もありますが、楊奉らは部下の徐晃の意見を聞かず、徐晃だけが曹操に降伏しました。
韓暹と楊奉は袁術の元に逃亡しました。
曹操は皇帝の名を使い袁術、公孫瓚と共に韓暹や楊奉にも懸賞金を掛け命を狙う事になります。
この時点で韓暹は大将軍になったとはいえ、ハリボテの大将軍であり天下のお尋ね者となっています。
袁術を裏切る
袁術は197年に大将軍の張勲に命じ、韓暹や楊奉と共に呂布を攻撃しました。
ここで陳珪が韓暹と楊奉に手紙を送り「皇帝を守り大功を立てた方々(韓暹、楊奉)が、なぜ皇帝を僭称した袁術に味方するのか」と説きます。
陳珪は韓暹らに、かなりの軍需品を与える約束もしました。
さらに、陳珪は逆賊の袁術を討つべきだと韓暹らに打診する事になります。。
韓暹らは元々袁術に忠誠を誓っているわけではなく、曹操に敗れ袁術を頼っただけでした。
さらに言えば、陳珪が述べた物資は韓暹らにとって非常に魅力的な存在でもあったはずです。
そういう事情もあり、韓暹と楊奉は袁術を裏切る事になります。
韓暹と楊奉は、呂布との戦いが始まるという絶妙のタイミングで裏切り、張勲は大敗北を喫しました。
戦いが始まるところで裏切る辺りは、韓暹や楊奉が戦の呼吸が分かっていた証とも言えるでしょう。
尚、韓暹らは袁術との戦いでは、将10人を斬る大活躍もしています。
余談ですが、陳珪の子の陳登も韓暹や楊奉と袁術の関係が、上手く行っていない事を見抜いていた話も伝わっています。
韓暹の最後
韓暹と楊奉は呂布の配下として活躍する事になります。
しかし、劉備は韓暹や楊奉を許せない相手だと考えていました。
韓暹らは徐州や揚州で略奪をした事もあり、劉備にとってみれば気に入らない相手だったのでしょう。
劉備は会見の場で楊奉を殺害しました。
韓暹は楊奉が亡くなった事を知ると「今度は自分の番だ」と考えたのか、白波賊の拠点がある并州まで遁走する事になります。
しかし、韓暹は劉備の息が掛かった沛郡杼秋県の県尉である張宣に討たれました。
韓暹はその場のみを考えた行動が多く、最後を迎えてしまったと言えるでしょう。
尚、韓暹を討った張宣は功績を立てはしましたが、この後にどうなったのかは不明です。