名前 | 李伯(りはく) |
生没年 | 不明 |
時代 | 春秋戦国時代 |
主君 | 趙の孝成王 |
李伯は戦国策の趙策に名前が見られる人物であり、趙の孝成王に信任された話があります。
李伯が謀反を起こしたとする話が、趙の孝成王の耳に入ってきますが、趙の孝成王は聞く耳を持ちませんでした。
それを考えると李伯は趙の孝成王に、かなり信任されたとも言えるはずです。
尚、李伯は代の長官になった話があり、趙で北方の名将と言われる李牧と関係があるのかも知れません。
今回は戦国策に登場する李伯の解説をします。
趙の孝成王に仕える
戦国策によると李伯は斉人だと記載があります。
斉の首都・臨淄は学問が発展した都市でもありました。
李伯は斉で学問をし、趙の孝成王に謁見を望み許されたのかも知れません。
趙の孝成王は李伯に面会すると、優れた人物だと認め代の長官としました。
代は趙の最北端にある地であり、匈奴を国境を接する地域でもあります。
それを考えると、李伯は趙の孝成王に匈奴対策でも述べたのかも知れません。
信任を受ける
李伯が代の長官になってから、李伯が謀反を起こしたとする情報が入ってきました。
趙の孝成王は、この時に食事をしていましたが、動じる事もなく食事を続けています。
それから、暫くすると再び「李伯が謀反を起こした」とする情報が入ってきました。
この時も趙の孝成王は動じる事もなく、「李伯謀反」の話に応えようとしなかったわけです。
それから、暫くすると今度は李伯の伝令が入り、次の様に進言しました。
しかし、斉は燕を討つと言いながら、軍勢を趙に向けるのではないか?と懸念しました。
そこで私も兵を興し、斉への備えとした次第です。
所が現在の様子を見るに、燕と斉は既に戦闘が始まっております。
ここで戦いにより損耗した国に付け入る事が出来れば、多くの土地を割譲させる事が出来ます」
李伯が兵を興したのは、謀反を起こしたのではなく、斉に備えた事が原因だったわけです。
趙の孝成王と李伯の話を聞くと「趙の外で仕える者たちは不安がなくなった」と記録されています。
首都にいない地方長官などは、いらぬ事を趙王に告げる者がおり、讒言などに悩まされていたのでしょう。
この話は、趙の孝成王の眼力の高さを表す逸話になります。
趙の孝成王は長平の戦いで将軍を廉頗から趙括に変えた事で、秦の白起に45万の兵を生き埋めにされ、首都邯鄲を囲まれる事態となりました。
こうした経験もあり、趙の孝成王の成長した姿が李伯との逸話になっているのでしょう。
ただし、魏の恵王と龐葱の「三人虎を成す」の話では、嘘の話であっても三人が同じ事を言えば、人は信用してしまう。とする話があります。
これを考えると、趙の孝成王も三人目の使者がやってきて「李伯が反旗を翻した」と言えば、信じてしまった可能性もある様に感じました。
李牧の関係者??
李伯ですが、名前が李姓であり李牧の関係者か本人の可能性もある様に感じています。
中国では長男が「伯」次男が「仲」三男が「叔」四男が「季」と名付けられる事が多々あります。
春秋時代の名宰相として有名な管仲は名前は夷吾ですが、管仲と呼ばれています。
これは管家の次男という事だとも考えられており、相棒とも言える鮑叔は鮑家の三男と言った感じなのでしょう。
三国志の世界でも司馬懿の字は仲達であり、司馬家の次男で、兄には司馬朗がおり字は伯達です。
それらの考えを元に、李伯を考えると李家の長男だとも考えられます。
さすれば、李牧の一族が李伯だったと考えられ、李牧も代の長官だった事を考えると、趙の孝成王の時代に李伯に功績があり、李家で代の長官が続いた様にも感じました。
さらに言えば、先に述べた様に李伯が李牧本人の可能性も残っているはずです。
ただし、李伯と李牧の明確な関係が、記録されている資料があるわけでもなく、真相は不明だとも言えます。