采桑の戦い(さいそうのたたかい) | 紀元前653年 | |
勢力 | 晋 | 翟 |
指揮官 | 里克 | 不明 |
兵力 | 不明 | 不明 |
損害 | 不明 | 不明 |
采桑の戦いは別名として「齧桑の戦い」と記載される場合もあります。
采桑の戦いは紀元前653年に起きた戦いと考えられています。
晋の大臣である里克が、梁由靡と虢射を引き連れて翟と戦った事が分かっています。
采桑の戦いの戦いでは里克の采配が優れていたのか、翟の軍を破りました。
しかし、里克が翟の軍を追撃しなかった事で、翟は再び勢力を盛り返し、晋を攻撃した話があります。
今回は、かなりマイナーな戦いではありますが、采桑の戦いの解説をします。
晋と翟の戦い
晋の献公は驪姫が生んだ奚斉を後継者にしようと考える様になります。
ここで、驪姫も奚斉を晋君に即位させようと考え、暗躍した事で結果として、紀元前656年に太子の申生が亡くなりました。
さらに、有力公子である重耳と夷吾に嫌疑が欠けられた事で、重耳は翟に亡命し、夷吾は梁に亡命します。
采桑の戦いですが、里克が兵を率いて翟と戦った事が分かっています。
里克が翟を攻撃する事になった理由は不明ですが、晋の献公は逃げた重耳がいる翟を攻撃したと言う所なのでしょう。
しかし、後年に里克は丕鄭と共に、驪姫、奚斉、卓子を手に掛けており、その後に重耳を晋に迎えようとしました。
それを考えると、里克は翟に対し、出陣はしましたが、翟を完膚なきまでに打ち破り、重耳の身に危険が迫るような事はしたくはなかったはずです。
追撃を行わず
里克は総大将として出陣し、里克の戦車の御者には梁由靡がなり、車右には虢射がなります。
里克は梁由靡、虢射と共に采桑で戦いました。
采桑の戦いでは、里克の采配が優れていたのか、晋軍の勝利となります。
采桑の戦いで敗れた翟は逃亡しますが、この時に御者の梁由靡は次の様に述べました。
梁由靡「翟は我等と違い「恥」という言葉を知りません。
逃げる事を屈辱だとは思ってもいないのです。
現在の翟は戦いに敗れ、敗走しております。
今の段階で追撃を行えば、多いに敵を打ち破る事が出来ます」
梁由靡は翟を追撃する様に、強く勧めました。
翟を徹底的に殲滅する様に考える梁由靡に対し、里克は次の様に述べています。
里克「翟の侵攻を防ぐ事が出来れば十分である。
敢えて翟の大軍を招く事はない」
里克は追撃を行えば、翟の大軍が出て来るから、その様な事になる前に撤退した方が良いと考えた事になるでしょう。
しかし、虢射は次の様な考えを述べます。
虢射「1年が過ぎれば翟は必ず攻めてくるはずです。
ここで追撃しないのは、我等の弱さを示す事となります」
虢射は翟に対し、追撃を行わなければ「晋は翟を恐れているから追撃を行わなかった」と考えたのでしょう。
里克と梁由靡、虢射の意見は食い違い、采桑の戦いは結局は、追撃を行わず晋軍は撤退しました。
翌年になると翟は、虢射の予想した通り、晋を攻撃する事になります。
これを見ると里克の見解よりも、梁由靡、虢射の見解の方が優れていた事になります。
しかし、采桑の戦いで里克が追撃を行わなかったのは、最初にも言った様に、重耳が翟にいた事が原因なのでしょう。
晋が翟を仮に滅ぼしてしまう様な事があれば、重耳の身に危険が及ぶと考え、追撃を行わなかったと感じています。
采桑の戦いでの里克の「防ぐだけで十分」とする心は、重耳の身を考えれば、それで十分だと考えた様にしか思えません。
余談ですが、里克の御者と車右になった梁由靡と虢射は紀元前645年の韓原の戦いでは、韓簡の戦車に乗り秦の穆公を追い詰めました。
里克を補佐した梁由靡と虢射は戦に明るい人物でもあったのでしょう。