名前 | 慶鄭(けいてい) |
生没年 | 生年不明ー紀元前645年 |
時代 | 春秋時代 |
主君 | 晋の恵公 |
年表 | 紀元前645年 韓原の戦い |
慶鄭は春秋時代の晋の大臣であり史記だけではなく、春秋左氏伝や国語などにも登場する人物です。
慶鄭は晋の恵公の韓原の戦いでのキーポイントになっている人物でもあります。
慶鄭は信義を口に出したりもしますが、晋の恵公と対立していたとも言えます。
尚、慶鄭が活躍している時期が確認出来るのは、韓原の戦いの前後だけであり、それ以外ではどの様な功績があるのかも不明です。
今回は晋の恵公に信義を説くも却下された慶鄭の解説をします。
秦の飢饉
紀元前646年頃に秦に飢饉があり、晋へ食料の援助を求めました。
この部分に関しては、春秋左氏伝をベースにしてあります。
前年に晋で飢饉があり食料が不足した時には、晋が援助してくれた経緯もありますが、晋の恵公は秦の求めを拒否する態度を示します。
ここで慶鄭は次の様に述べました。
慶鄭「恩がある相手を裏切ってしまったら、親しい者を失います。
恩人の不幸を喜んだら不仁ですし、自分が大事にしている物に対し貪欲になったら不祥です。
隣国を怒らせる事は不義であり、四つの徳を失いながら国を治める事が出来るでしょうか」
慶鄭は秦の穆公には助けて貰ったのだから、食料を援助するべきとする考え方を持っていました。
しかし、晋の大臣の一人である虢射は既に、秦に対し晋は背信行為を行っているから、今になって食料を届けても意味はないと主張しました。
虢射の意見に対し、慶鄭は次の様に述べています。
慶鄭「信義を持たず隣国に背信行為を行ったら、誰が我々が困難で出くわした時に助けてくれるのでしょうか。
信義が無ければ悩みや憂えが出てしまい、助けを得る事が出来ねば、必ず倒れるでしょう」
慶鄭は信義の重要さを説きますが、虢射は秦に食料を援助しても晋への恨みを消す事は出来ず、逆に秦が強くなると言い返しました。
慶鄭は次の様に反論します。
慶鄭「恩を捨て去り相手の不幸を喜ぶのは民衆が嫌う事だ。
親しい者でもその様な事があれば仇となるのに、敵国であればなおさらである」
慶鄭は自分の考えを曲げず、秦との友好を壊すべきではないと主張した事になるでしょう。
しかし、晋の恵公は慶鄭の意見を聞かず、虢射の意見を採用しました。
慶鄭は次の様に呟きました。
慶鄭「我が君は必ずや後悔する事になる」
慶鄭は予言めいた事を言いますが、これは現実となります。
ただし、慶鄭が自ら予言を成就させた部分もあると言えるでしょう。
尚、史記や国語などでは若干記述が違っていたりしますが、いずれも慶鄭は信義を説きますが、晋の恵公は聞かず、戦闘に突入しています。
韓原の戦い
ここでも晋の恵公と慶鄭との間で意見の食い違いがあり、慶鄭は「秦に対し不義を犯したのだから、敵が攻めて来るのは当然」だと述べました。
晋の恵公は慶鄭の態度に腹を立て、占いで慶鄭を御者や車右にする様に出ても、従わず家僕徒や歩揚を御者と車右に任命しています。
韓原の戦いでは晋の恵公の戦車が危機に陥り、慶鄭に助けを求めますが、慶鄭は従わずに戦場を後にした話があります。
逆に慶鄭は秦の穆公を捕える寸前であった韓簡、梁由靡、虢射に「晋の恵公を守りに行くように」と伝えた事で、秦の穆公を取り逃がしています。
韓原の戦いは晋の恵公が捕虜になるなど、晋の惨敗となりますが、慶鄭の行動が勝敗を分けたと見る事も出来そうです。
慶鄭の最期
晋の恵公は秦の捕虜となりますが、姉の穆姫の助けにより解放され晋に戻る事になります。
晋の恵公は慶鄭を恨んでおり、慶鄭は晋の恵公が戻れば処刑される様な状態だったわけです。
大夫である蛾析は慶鄭に亡命を勧めますが、慶鄭は信義の違えると考え亡命しませんでした。
晋の恵公は首都の絳に入る前に、慶鄭を呼び出し処刑しようとしますが、慶鄭は死ぬつもりだったと述べます。
晋の恵公が慶鄭を処刑しようとすると蛾析や家僕徒が慶鄭を庇いますが、梁由靡が処刑を主張した事で、慶鄭の処刑が決定しました。
慶鄭は司馬説に罪を読み上げられ、斬首される事になります。
この時に慶鄭は罪状の一つに「晋の恵公が捕虜になったのに顔に傷がない」事がある事を知ります。
慶鄭は司馬説に「私が顔に傷がない事を恐れると思うな」と述べ、司馬説は刑を実行しました。
慶鄭の最期は紀元前645年だったはずです。