鄭度は正史三国志や華陽国志に名前がある人物です。
正史三国志では法正伝に名前が見えます。
華陽国志によれば、鄭度は広漢の人で州の従事であったと記録されています。
広漢は益州に属している事から、鄭度は益州を治めていた劉璋に、そのまま仕えたという事なのでしょう。
劉備は張魯討伐の名目で益州に入りますが、最終的に劉璋と対立しました。
劉備と劉璋の対立が決定的になった時に、鄭度は劉璋に焦土作戦を進言しています。
しかし、劉璋は性格上なのか焦土作戦を好まず、鄭度の進言を却下しました。
鄭度の策が実行に移されれば、劉備軍は危機に陥っていたはずであり、鄭度の言葉を聞かなかった劉璋は、益州を失ったとする見方も出来るはずです。
尚、鄭度が劉璋に進言した話は、三国志演義でもあります。
焦土作戦を進言
劉備は張魯討伐の名目で益州に入りますが、張松が捕らえられた事で、劉璋と対立します。
劉備は白水関の高沛と楊懐を斬り、対立は決定的となったわけです。
ここで鄭度は、次の様に進言しました。
鄭度「左将軍(劉備)は本拠地を離れて、我が方と対峙しております。
劉備の軍勢は1万も満たない数ですし、兵士も心服してはおりません。
劉備は野にある穀物を頼りにしておりますし、輜重を持ち合わせていないのです。
我が方の計略としては、巴西、梓潼の住民を悉く、涪の西に移動させた上で、物資を全て焼き払ってしまえばよいでしょう。
我らは塁を高く積み待ち受ければよいのです。
劉備の軍が戦いを挑んでも、応じる事が無ければ、100日もすれば劉備は撤退する以外に道は無くなります。
逃げる劉備の軍を追撃すれば、必ず敵を打ち破る事が出来ます」
鄭度は住民を涪の西に強制的に移動させた上で、守りを固めれば劉備軍を撃退出来ると進言しました。
鄭度は焦土作戦を劉璋に進言した事になります。
焦土作戦は第二次世界大戦でもソビエトがドイツに行っており、多いにドイツ軍を苦しめた作戦でもあります。
鄭度が進言した策は、非人道的な作戦ではありますが、戦いに勝つ上では非常に有効な作戦だとも言えます。
劉璋の決断
鄭度が焦土作戦を劉備に進言した話を聞くと、劉備は多い不快に感じたとする話が残ってます。
劉備としては、戦いに勝ったとしても土地の一部は焦土になってしまう事で、絶対にやって欲しくはない策でもあったのでしょう。
さらに、劉備としても鄭度の焦土作戦を実行されれば、窮地に陥る事は確実であり、軍師の法正に相談しました。
法正は劉備に次の様に答えました。
法正「鄭度の策は、結局は劉璋に取り上げられないので心配はいりません」
法正は劉璋に仕えていた人物であり、劉璋の性格を知り抜いていたのか、鄭度の策を却下すると読んだわけです。
実際に劉璋は、次の様に述べて鄭度の焦土作戦を退けています。
劉璋「私は敵を防いで民衆を落ち着かせると聞いてはいるが、民衆を移動させて敵を避けるなど聞いた事がない」
劉璋は鄭度の進言を却下しました。
劉璋としては、鄭度の焦土作戦が有効だと言う事は分かっていましたが、民衆に危害が及ぶ事はしたくはなかったのでしょう。
正史三国志にもはっきりと「鄭度を退け、その策を採用しなかった」とあります。
劉璋は鄭度の策を退けたわけですが、劉循や張任が劉備軍の龐統を討ち取るなどはありましたが、李厳が寝返るなど全体的には不利で本拠地の成都を囲まれてしまいます。
劉璋は簡雍と面会し、劉備に降伏しますが、この時に「鄭度の策を実行していれば・・。」と思ったのかは定かではありません。
尚、劉備は劉璋の命を取りませんでしたが、劉璋を処刑しなかった一つの理由は、鄭度の焦土作戦を却下した部分にある様に感じています。
ただし、華陽国志には鄭度の進言を却下した劉璋は愚か者だとする話も掲載されています。
実際の所なのですが、鄭度の意見を採用し徹底的に行ったのであれば、劉備はかなり苦しい立場に追い込まれていた事は間違いないでしょう。
尚、劉備が益州を手に入れてからの鄭度が、どの様になってしまったのかは不明です。
しかし、鄭度の焦土作戦は劉備は不満に思った事だけは間違いと感じており、重用はされなかった様に思います。