衛継は正史三国志の注釈・益部耆旧雑記に登場する人物です。
残念ながら、陳寿が書いた正史三国志の本文には登場しません。
衛継は楊戯伝の注釈・季漢輔臣賛の最後に、王嗣や常播と共に書かれた人物です。
衛継が一番最後に書かれている事もあり、蜀書の最期を飾る人物だと言えるでしょう。
王嗣は異民族を手懐けた事で記録され、常播が忠義心により記録された事に対し、優れた頭脳の持ち主で蜀で出世した事で名が残りました。
衛継は張家に養子に出されたわけですが、養子に出た事で出世街道に乗ったとも言えそうです。
張君に気に入られる
益部耆旧雑記によると、衛継の字は子業であり益州の漢嘉郡厳道県の出身だとあります。
衛継は5人兄弟であり、衛継の父親は功曹だったと記録されています。
衛継は子供の頃に父親と一緒に、役所に行き庭で遊んだ事がありました。
県長をしていた張君は子がおらず、部下の功曹らに子供を連れて来るようにと依頼していたわけです。
張君は子供たちがやってくると、一緒に遊んだりし非常に可愛がりました。
張君は子供たちを観察しており、自分の養子になる様な子を探していたわけです。
張君にしてみれば利発で、張君に対して懐いている子が欲しかったのでしょう。
衛継が養子に出される
張君は衛継を養子にしたいと考え、衛継の父親と雑談をした時に「衛継を養子に貰いたい」と述べました。
衛継の父親も薄々気が付いていたのか、直ぐに承諾し、衛継を養子に出す事を決めたわけです。
衛継は頭の回転が速く鋭く知識を吸収し、広い学識を有する事になります。
衛継は州郡に出仕し、エリート街道を邁進しました。
衛継が次々に出世するのに対し、衛継の残りの4人の兄弟は才覚が不足しており、世間に通用するだけのものが無かったと伝わっています。
養子に出した衛継が出世し、残った兄弟が出世から外れている事で、衛継の父親は「自分の家は衰え、張明府(張君)の家は栄えるに違いない」と述べていた話があります。
衛継は張君の家に養子に出されたのですが、当時は法律で異なった名字の者を跡継ぎにする事を禁止していました。
こうした理由もあり、衛継は再び衛氏を名乗る事になります。
この時に張君との関係が、どの様になったのかは不明です。
衛継の最期
衛継は蜀漢において何度も出世し、奉車都尉、大尚書となります。
衛継は篤実で誠実な人柄もあり、皆に愛されたとあります。
衛継は頭の回転が速いだけではなく、優れた人間性も持っていたのでしょう。
しかし、衛継が仕えた蜀の国は終焉を迎える事になります。
魏の司馬昭は蜀を滅ぼす決断をし、鍾会と鄧艾に命じ蜀の国に侵攻したわけです。
この時に、姜維と鍾会が剣閣の戦いを行っている隙に、鄧艾は蜀を急襲し諸葛瞻を破り劉禅は降伏しました。
これにより衛継が仕えた蜀は呆気なく滅亡しました。
しかし、蜀が滅んだだけでは終わらず、鍾会の乱が発生する事になります。
鍾会の乱の際に、衛継も成都で命を落としました。
この記述が正しければ、衛継が亡くなった年は西暦264年になるはずです。
あくまで想像になりますが、衛継は蜀の高官でもあり難を避ける事は出来ませんでしたが、衛継の残りの4人の兄弟は逃げ延びる事が出来たのかも知れません。
衛継の残りの兄弟は出世コースから外れていた事もあり、乱から避ける事も出来た様にも感じています。