赤松氏範は赤松円心の末子であり、大半を南朝に与して戦っています。
赤松氏範は無双大力と呼ばれていた話があり、戦では勇猛果敢に戦っていたのでしょう。
南北朝時代で赤松氏は大半を北朝として戦いますが、赤松氏範は大半を南朝として戦い抜く事になります。
ただし、南朝の後村上天皇に忠義を誓っていたわけではなく、興良親王と組み反乱を起こしてもいます。
赤松氏範に関しては不明な点が多いのですが、1383年もしくは1386年に最後を迎えたとされています。
赤松氏の中でも反主流派だったと言えるでしょう。
赤松氏範の出奔
摂津国中島、有馬、備前国馬屋郷に領地を持っていたとされています。
観応の擾乱の一幕で赤松則祐が南朝の興良親王を擁立し、佐々木道誉と共に挙兵した事がありました。
この後に赤松氏範が赤松氏を出奔し、南朝に属したと考えられています。
兄の赤松則祐が短期間で興良親王を捨て去った事が原因とも、赤松円心の子の中で末弟の氏範は兄たちと比べて待遇に不満を持ち、出奔したともされています。
賀名生を襲撃
南朝では吉野が高師直により放火された事もあり、賀名生を本拠地としていました。
足利尊氏が亡くなると足利義詮が後継者となりますが、執事に細川清氏を任命しています。
細川清氏は南朝への攻撃を画策し、畠山国清の協力もあり大戦果を挙げますが、この時に興良親王が室町幕府の軍と戦いたいと強く望んだわけです。
後村上天皇は赤松氏範に吉野十八郷の兵を付けて、興良親王の元に派遣しました。
しかし、興良親王と赤松氏範は呆気なく室町幕府に寝返り、賀名生に攻撃を仕掛けたわけです。
興良親王と赤松氏範により後村上天皇の行宮が焼かれるなど、南朝は大きな損害を出しました。
最初は優勢だった興良親王と赤松氏範ですが、二条師基が後村上天皇の援軍として到着すると不利となり、結局は敗れています。
興良親王は河内に移動し、赤松氏範は播磨に戻ったとも伝わっています。
赤松氏範の濫妨
1368年になると室町幕府では摂津守護の赤松光範に江口五カ荘の赤松氏範により濫妨を撃退し、安威資脩に沙汰付する様に命令しています。
この頃には赤松氏範は南朝に復帰していたのでしょう。
この事件から江口五カ荘の付近が、赤松氏範の勢力基盤になっていた事が分かるはずです。
1369年になると赤松則祐と赤松光範は赤松氏範を討つために、摂津中島に軍勢を向けました。
赤松氏範は戦いに敗れ天王寺へと落ち延びて行く事になります。
しかし、1372年になると再び江口五カ荘で押領を行っており、問題となっています。
この時も幕府は安威資脩に沙汰付する様に命じました。
赤松氏にとってみれば、赤松氏範の存在は、かなり迷惑な存在だった事でしょう。
赤松氏範の最後
赤松氏範の行動は分かりにくい部分が多いのですが、1386年に再び挙兵したとされています。
しかし、挙兵はしましたが赤松氏範は世を去った事にもなっています。
一つの説として赤松氏範が亡くなったのは1383年だったのではないかとする説が存在しています。
永徳三年(1383年)九月に赤松義則が、清水寺に有馬郡仲荘の田地二反を寄附した記録があるわけです。
清水寺に土地を寄附した理由ですが、清水寺で赤松氏範の親子が滅亡しており、追善供養の為に寄附したとあります。
この記録が正しければ赤松氏範は1386年の段階で、最後を迎えていた事になるでしょう。
赤松義則は南朝に味方した者とはいえ、赤松氏範に同情的であり、亡くなった地である清水寺に土地を寄附したと考える事が出来ます。