末喜(ばっき)は、夏の桀王の妃であり、傾国の美女だったと伝わっています。
末喜は絹を裂く音が好きだったために、高価な絹を集め、次々と裂かれたなどの話もあります。
夏の桀王の代で夏王朝が滅亡している事から、末喜は中国史上初の傾国の美女という事にもなるでしょう。
ただし、夏王朝自体が実在が確認されておらず、末喜も実在した人物ではないとする説もあります。
尚、夏の桀王の末喜、殷の紂王の妲己、周の幽王の褒姒は、古代中国の三大悪女に数えられる事があります。
夏の桀王が末喜を得る
夏の桀王が末喜を娶った経緯ですが、有施氏を討った時に、有施氏は末喜を夏の桀王に献上したとあります。
夏の桀王の軍勢に攻められた有施氏は、美貌の娘を桀王に献上する事で許されたと言う事なのでしょう。
この話は、後述しますが、殷の紂王が妲己を手に入れた経緯と同じです。
尚、末喜の実家である有施氏が、その後にどうなったのかは定かではありません。
末喜の人柄
列女伝に末喜の容貌が次の様に書かれています。
「容貌は輝くばかりであるが、徳が足らず。禍をまき散らして道を踏みにじった。
男の様な振る舞いをし、剣を吊るして男性の冠を付けていた。」
列女伝の記述を見ると、末喜は女性でありながら、男性の様な格好をしていた様に感じます。
今でいうボーイッシュな女性だったのかも知れません。
しかし、美貌があり末喜は夏の桀王に寵愛される事になります。
夏の桀王は、「礼儀を棄て、女漁りに熱中し、四方の美女を求めて後宮においた」とあるので、かなりの女好きだった事になるでしょう。
多くの女性がいた中で、夏の桀王は末喜に夢中になったと言う事は、末喜は女性としてかなり優れた容貌や仕草などを持っていた事になります。
後宮の中でも、図抜けた美女が末喜だったはずです。
末喜は常に夏の桀王の膝の上にいたとする話もあります。
風習を乱す
夏の桀王や末喜は芸達者な人を集めては、傍においたとあります。
夏の桀王や末喜は、官能的な楽曲を作ったとも言われています。
官能的な楽曲を作ったというのは、風習の乱れを指すのでしょう。
夏の桀王や末喜は、先王の教えを棄て、淫らな風習を引き出した事になります。
酒の池を作る
夏の桀王と末喜は、酒の池を作った逸話があります。
酒の池と言えば、殷の紂王と妲己の酒池肉林を思い浮かべる人も多い事でしょう。
しかし、夏の桀王と末喜も酒の池を作った話があります。
夏の桀王と末喜が作った酒の池は「船を浮かべて遊べるほどだった。」とある事から、かなりの大きな池だった事が分かります。
夏の桀王が太鼓を叩けば、3000人が頭を繋いで酒のがぶ飲みを始め、酔って溺死する者があれば、末喜は笑い者にして楽しんだとあります。
殷の紂王の酒池肉林は、淫乱な遊びを楽しむだけでしたが、夏の桀王の酒池肉林は死者が出るほどだったわけです。
溺死する者を笑って楽しむ辺りは、末喜の残虐性を現わせているのでしょう。
関龍逢の諫言
夏の桀王と末喜の行いを見た関龍逢は、次の様に諫言する事になります。
関龍逢「我が君は道を踏み外しております。このままでは夏は滅びます。」
これに対して、夏の桀王は次の様に答えます。
桀王「太陽が滅びる事はない。太陽が滅びる様な事があれば、儂も滅びるだろう。」
夏の桀王は、関龍逢の諫めを聞かず、夏王朝の崩壊を信じなかったわけです。
史記などによれば、「孔甲の時以来、多くの諸侯が背いた」とある様に、夏は危機的な状況にあったはずです。
それにも関わらず、夏の桀王は末喜と戯れ、政治を正そうとはしませんでした。
夏の桀王は関龍逢を「世を惑わす不埒な輩」とし処刑しています。
この状態を見ると、夏も末期状態だと言えます。
尚、関龍逢に関しては、秦の始皇帝の寵臣である、李斯の口から自分以上の賢臣として認める発言があります。
殷の湯王を捕える
夏の桀王は、機械仕掛けで動く玉で出来た宮殿や高楼を建造し、夏の財源を使い切ってしまった話しもあります。
それでも、夏の桀王は飽きたらなかったと言います。
夏の桀王は、諸侯の一人である殷の湯王を呼びつけ、夏台に閉じ込めますが、後に夏の桀王は殷の湯王を許し釈放しました。
殷の湯王を許した後に、大規模な反乱が起きる事になります。
末喜の最後
諸侯の軍を率いた殷の湯王と夏の桀王は、鳴条の戦いで激突する事になります。
この時に夏の桀王の方が兵力は多かった様ですが、戦意はなく「桀王の軍は戦わなかった」とあります。
ただし、史記などの記述によれば、殷の湯王は夏の桀王を追放したとあり、処刑したわけではありません。
列女伝によれば、追放された夏の桀王は、末喜やお気に入りの側室と船で、巣湖を漂い、南巣の山で亡くなったとあります。
末喜も南巣の山で亡くなったのでしょう。
普通で考えれば夏の桀王も末喜も処刑されても、おかしくは無い様に感じますが、なぜ追放で済んだのかは分かりません。
末喜の評価
末喜の評価は、もちろん低いと言わざるを得ません。
詩経には、末喜は毒婦であり悪しき言葉で夏の桀王を誤らせたとする記述もあります。
頌には次の言葉が述べられています。
「末喜は、桀王に連れ添い、乱れに乱れ驕り高ぶっていた。
桀王は道を誤り荒廃し、内と外の悪しき輩を用い夏后の国は転覆し、殷の世となった」
これを見ると末喜は妲己と並び評価が低いと言わざるを得ないでしょう。
まさに、末喜は傾国の美女という様子が伺えます。
末喜は存在しなかった!?
末喜が存在しなかった説があるので紹介します。
妲己に似すぎている
妲己の記事を読んで貰えば分かりますが、殷の紂王の妃となった妲己と末喜は行いが大体が同じです。
殷の紂王は妲己を有蘇氏を討った時に手に入れ、夏の桀王は有施氏を討った時に末喜を手に入れています。
さらに、妲己も末喜も美貌の持ち主であり、王を虜とし酒池肉林などの贅沢三昧な生活をします。
殷の紂王は諫言した比干を殺害し、夏の桀王も諫言した関龍逢を処刑しており、殷の紂王は周の文王を羑里に幽閉し、夏の桀王も殷の湯王を夏台に幽閉しました。
最後は一大決戦が起きますが、殷の紂王は味方の兵士が従わず牧野の戦いで敗れ、夏の桀王も見方の兵士に戦意が無く鳴条の戦いで敗れたわけです。
これを見ると殷の紂王と夏の桀王の最後は類似点が多く、末喜も妲己を元に作られた想像上の人物ではなかったのか?と考えられます。
妲己と末喜は容貌の違いはあれど、やっている事は同じであり、末喜は架空の人物ではないか?とも考えられるからです。
因みに、妲己も甲骨文に名前が無く実在は証明する事が出来ません。
古代中国三大悪女の末喜、妲己、褒姒は全員が存在しなかった説もある程です。
夏王朝自体が存在しなかった
末喜どころか、夏王朝自体が、そもそも存在しなかった説もあります。
殷王朝は殷墟などの発掘により、存在は明らかになっています。
しかし、夏王朝は司馬遷の史記や諸子百家の書では出てきますが、実在が証明される遺跡は一切出土していません。
もちろん、夏王朝の伝説は人々の口で語られ続け、それが史書に残った可能性もあります。
現存する最古の夏に対する資料は尚書だと言われています。
しかし、尚書は秦の穆公までの記録があり、少なくとも穆公の時代である紀元前659年以降に書かれたものだという事になるでしょう。
さらに、尚書には戦国時代に完成されたとされる五行説の事も記述されています。
これを考えると尚書が成立したのは、5世紀くらいではないか?とも考えられるわけです。
夏は紀元前1600年頃に滅んだ話もあり、尚書と夏王朝の時代は1000年以上も離れている可能性もあります。
それを考えると、夏王朝が本当に存在したのかは分からない部分があり、夏の桀王も末喜も想像上の人物だとも考えられます。
夏王朝の時代は文字も発見されておらず、末喜の実在を確認する事は出来ません。
殷の紂王の妲己が甲骨文で確認する事が出来ずいなかった説もある様に、末喜もいなかった可能性も高い様に感じています。
新資料などの発掘に期待したいと思います。