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陳珪は老獪な策士

2023年3月5日

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宮下悠史

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名前陳珪(ちんけい) 字:漢瑜
生没年不明
時代後漢、三国志
一族曾祖父:陳屯 祖父:陳亹 伯父:陳球(太尉) 
従兄弟:陳瑀、陳琮 子:陳応、陳登
画像©コーエーテクモゲームス

陳珪は後漢書や正史三国志に名前が登場する人物です。

三国志演義などでは呂布を上手く転がした人物として描かれています。

史実の陳珪を見ると袁術の要請を断わったり、呂布に対しては詭弁を使うなど三国志演義と同様に老獪な策士として活躍しました。

陳珪の伯父である陳球は後漢書に伝がある人物であり、司空や大尉などを歴任した話があります。

それを考えると、陳珪は間違いなく名士だと言えます。

尚、陳応や陳登は陳珪の子です。

因みに、三国志演義では陳珪は老獪な策士でありながら、心は劉備にあったかの様に描かれています。

しかし、実際の陳珪の心は後漢王朝や曹操にあったと言えるでしょう。

袁術の要請を拒絶

史書によれば陳珪は孝廉に推挙され、劇県令になったとあります。

しかし、陳珪は官を去り、今度は茂才に推挙され、済北国相になったとあります。

陳珪は名士であり、比較的簡単に仕官する事が出来たのでしょう。

尚、陳珪が沛国の相をやっていた時代には、華佗を孝廉に推挙しました。

しかし、華佗はあくまで医者を志した為か、仕官は断っています。

陳珪は同じく名士で名門汝南袁氏の袁術とは、若い頃から行き来し交流を深めていた話があります。

後に袁術は董卓が実権を握った時に、袁紹が盟主となった反董卓連合に加わりますが、連合軍解散後に匡亭の戦いで曹操に敗れ寿春に逃げ込みました。

袁術は寿春を本拠地とすると陳珪に協力を促し手紙を出しています。

袁術は陳珪にの末期を例に出し、腹心となってくれる事を願いますが、陳珪は曹操に協力すると述べ、袁術の要請を断っています。

尚、陳珪と袁術の手紙のやり取りの内容に関しては、袁術の記事で書いたので、ここでは省略します。

陳珪は献帝を擁する曹操に協力する事を述べ、袁術の要請を拒絶したという事です。

袁術と呂布の婚姻を破綻させる

呂布劉備から徐州を奪い陳珪や陳登を重用した話があります。

しかし、陳珪の心は呂布にはなく、後漢王朝の献帝や曹操に向かっていました。

袁術は呂布を味方に引き入れたいと考え、呂布の娘を自分の息子の嫁にしたいと伝え、呂布が承知した話があります。

ここで袁術は韓胤を使者とし、皇帝を名乗り仲王朝を開く経緯を伝え、合わせて呂布の娘を迎えさせようとします。

陳珪は袁術と呂布が連合すれば、揚州の南北に連なる大勢力となり、国家の禍になると危惧しました。

そこで陳珪は呂布の元に赴くと、次の様に述べています。

※正史三国志 呂布伝より

陳珪「曹公(曹操)は天子を迎え奉っており、国政を輔弼され、その威光は当代を風靡し、四海の内を征伐しようとしております。

将軍(呂布)には曹公と心を合わせ計画を共にし、泰山の様な安定を得る様にすべきです。

現在の状況を見るに、袁術と婚姻を結んでしまえば、天下からは不義の汚名を被り、積み重ねた卵の様な危険を招く事態となるでしょう」

呂布は過去に袁術が受け入れてくれなかった恨みもあり、陳珪の言葉で気が変わり、既に出発した娘に追いつき城に戻らせ、袁術の使者の韓胤を捕え、曹操の元に送り届けました。

これにより韓胤は曹操に処刑される事になります。

陳珪は息子の陳登を曹操の元に派遣しようとしますが、呂布は許しませんでした。

この行動を見るに、呂布は陳珪を信頼しきっていたわけでもないのでしょう。

しかし、呂布が朝廷より左将軍に任命されると、呂布は喜び陳登を都に派遣しています。

この後に、曹操は陳珪と陳登が内通者になってくれている事を喜び、陳珪の扶持を中二千石に引き上げ陳登を広陵太守としました。

余談ですが、呂布が袁術の息子に嫁入りする予定だった娘が呂玲綺のモデルだと考えられています。

尚、袁術の息子には袁燿がおり、陳珪は呂玲綺と袁燿の婚姻をぶち壊したと言えるのかも知れません。

韓暹・楊奉を寝返らせる

陳珪は呂布と袁術の婚姻を阻止したわけですが、袁術は呂布の態度に激怒しました。

激怒した袁術は韓暹や楊奉と手を組み、張勲を大将として徐州を攻撃しています。

呂布は袁術の攻撃を招いたのは「陳珪が原因」だと考え、陳珪を詰りました。

ここで陳珪は落ち着いて、次の計を進言しています。

※正史三国志 呂布伝より

陳珪「韓暹、楊奉と袁術の軍は、即席で作った連合軍でしかありません。

予てから定めた計画があったわけでもなく、協力体制を維持する事は出来ないでしょう。

我が息子である陳登の判断では、彼らは群れをなした鶏の様なものであり、勢いからいって一つにまとまる事は出来ません。

敵を分裂させる事が出来るはずです」

呂布は陳珪の策を採用し、韓暹と楊奉に使者を派遣し、ありったけの軍需品を、韓暹と楊奉に提供すると約束しました。

結果として、韓暹や楊奉は袁術を裏切り、張勲の軍を攻撃する事になります。

張勲は韓暹や楊奉の攻撃に持ちこたえる事は出来ず、大敗北を喫しました。

しかし、これ以後の陳珪に関する記述は史書から消える事となります。

陳珪の最後

陳珪の墓が徐州下邳国帰正にあったとする話があります。

しかし、陳珪がいつ亡くなったのか?や、どの様な最後を迎えたのかは記録がなく分かっていません。

238年の魏の曹叡の時代に、司馬懿が遼東の公孫淵の討伐を行っており、その中に陳珪という名前が見えます。

しかし、呂布袁術を老獪に翻弄した時代は、西暦195年位であり、年代的に離れ過ぎている事もあり、司馬懿配下の陳珪は別人だと考えられています。

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