春秋戦国時代

趙の献侯は中牟を本拠地とし中原進出を目指す

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宮下悠史

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名前趙の献侯
姓・諱趙浣
生没年生年不明ー紀元前409年
在位紀元前425年ー紀元前409年
時代春秋戦国時代
一族父:代の成君 子:烈侯
コメント中牟を本拠地とした。

趙の献侯(趙浣)は春秋戦国時代の趙の当主です。

趙浣は代の成君の子で趙襄子の子ではありませんが、趙襄子により太子に指名されました。

趙の献侯はの当主になった後に、趙桓子と後継者争いを繰り広げますが、最終的に勝利しています。

趙の献侯は中牟を本拠地とし、中原の衛への進出を目指したと考えられています。

太子となる

趙襄子は兄の伯魯に代わり、趙の君主になった経緯がありました。

趙襄子は太子を廃されても自分を支えてくれた伯魯に感謝しており、伯魯の子にを継がせたいと考えていました。

趙が代を取った時に、伯魯の子である代の成君に与えていますし、本気で伯魯の子孫に継がせたいと思っていたのでしょう。

しかし、趙襄子よりも先に代の成君が没してしまい、代の成君の子である趙浣を太子としました。

趙浣こそが、趙の献侯となります。

趙の献侯が立つ

趙襄子が亡くなると、趙の献侯が立ちました。

史記によると趙の献侯は年若くしての当主となり、中牟で政務を行ったとあります。

中牟は邯鄲よりも南に位置し鄴と朝歌の中間にある地です。

趙の献侯の中牟遷都は中原進出を目指し、衛への攻勢を強める為だったのでしょう。

それと同時に、趙の献侯を支持する者の多くは、中原進出派だったのではないでしょうか。

趙の献侯の祖父である趙鞅は衛への進出を行っていましたが、趙鞅の政策に回帰したとみる事も出来ます。

北伐派と中原進出派

史記によると、趙の献侯が位についてすぐに、趙襄子の弟の趙桓子が趙の献侯を放遂し君主となりました。

この時に趙桓子は代で自立したとあり、趙桓子を支持する勢力は北伐派であり、戎討伐派だったのではないでしょうか。

しかし、趙桓子は僅か1年で没し、趙の国人らは「趙桓子が立ったのは、趙襄子の本意ではない」とし、再び趙の献侯が立つ事になります。

では趙桓子の子を殺害し、趙の献侯の周りを固めました。

趙の献侯は衛の打倒を考え、中原進出を目指したと考えられています。

尚、史記の趙世家では、趙の献侯の十年に中山国の武公が初めて立ったと記録しました。

因みに、趙で献侯と趙桓子が争っている隙に、の正卿は魏の文侯が就任する事になります。

平邑に城を築く

史記によると、趙の献侯の13年(紀元前412年)に、代の平邑に城を築いたとあります。

史記の記述では北方の代に城を築いた事になっていますが、翌年に平邑が斉の攻撃を受けており、代では遠すぎると考えられています。

こうした事情もあり、平邑の位置は黄河の右岸であり、衛への進出への一手だったのでしょう。

この頃の情勢としては韓武子が鄭への進出を図り、魏は文侯への進出を強めていました。

紀元前411年に斉がに侵攻し、田公子居思が平邑を包囲しています。

趙の献侯の時代は斉の宣公の時代でもあり、魯に攻勢を強めるなど活発に動いていました。

趙の献侯の最後

史記によると趙の献侯は、その13年に亡くなったとあります。

紀元前409年に亡くなったという事なのでしょう。

趙の献侯が亡くなると、子の趙の烈侯が立ちました。

趙の烈侯の時代には東周王朝から「侯」として認められており、趙の献侯は追諡され献侯と呼ばれる事になります。

先代:趙襄子献侯次代:烈侯

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