キングダムでは秦軍16万と韓軍19万が英呈平原で戦った事になっています。
秦は南陽を無血開城させると、次は韓の首都・新鄭を落すべく動きだしました。
韓の朝廷では張宰相が主戦派であり、洛亜完や博王谷が英呈平原で迎え撃つ事が軍議で決定しました。
秦では騰を総大将、李信を副将として、英呈平原の戦いが勃発します。
英呈平原の戦いは1日で終わってしまいますが、見所が多く楽しめた人も多いのではないでしょうか。
今回は英呈平原の戦いが史記や当時の秦や韓の戦力差などと共に、実際に存在した戦いなのか考察してみました。
キングダムの英呈平原の戦い
最初にキングダムの英呈平原の戦いを簡単におさらいしておきます。
南陽を手に入れた秦は、矛先を韓の王都である新鄭としたわけです。
韓では主戦派の張宰相や洛亜完、博王谷がおり、韓の王安王も英呈平原の戦いで勝利し、騰の首を取り凱旋する様に命じました。
韓軍19万の兵士と秦軍16万と英呈平原で激突する事になります。
英呈平原の戦いが始まると、博王谷がヨコヨコを上手く使った巧みな戦術を見せ、秦軍を苦しめますが、博王谷は李信に討ち取られました。
騰はこの間に韓の寧姫に戦場を見せるなどしています。
洛亜完と騰の戦いとなりますが、洛亜完と干央の一騎打ちとなりますが、討つ事は出来ませんでした。
騰は洛亜完を討つ様に命じ自ら戦い、録嗚未が背後から攻撃しますが、ヨコヨコが現れて阻止されています。
ヨコヨコは博王谷が討たれた事を知らせると、洛亜完は撤退を決断し英呈平原の戦いは幕を閉じました。
英呈平原の戦いは1日で終わった事になっています。
この後に東砂平原の戦いが勃発しますが、ここでも韓軍は敗れました。
韓の王安王は最終的に新鄭を無血開城し、韓は滅亡しています。
英呈平原の戦いは史実なのか考察してみた
英呈平原の戦いですが、個人的には原泰久先生が考案した架空の戦いだと考えています。
史記には、韓の滅亡に関して、次の記述が存在します。
※史記始皇本紀より
内史騰が韓を攻撃し韓王安を捕虜とし、悉くその領地を収め、潁川郡を設置した。
※史記韓世家より
韓王安の九年。秦は王安を捕虜とし、その土地を悉く手にし、潁川郡とした。
史記の記述は詳細が書かれておらず、韓がどの様にして滅亡したのかが分かりませんが、韓王安が虜にされた事だけは間違いないのでしょう。
ただし、始皇本紀に内史騰が韓を攻撃した記述があり、それなら英呈平原の戦いは存在したのではないかと思うかも知れません。
ここで注意しなければいけないのが、紀元前230年の秦と韓の状態でしょう。
下記が秦滅亡時の韓と秦の戦力差であり、低く見積もっても10倍以上の戦力差がある事が分かるはずです。
(画像:YouTube)
この状態の韓軍が19万もの兵数を集めるのは、不可能ではないかと感じました。
秦は後に楚を攻撃しますが、この時に秦王政は60万の軍勢を王翦に預けますが、これが秦の全軍に近かったと伝わっています。
大国の秦でも60万であり、滅亡寸前の韓が19万の兵を集め野戦を行うのは、不可能に近いのではないでしょうか。
個人的には秦は韓の10倍以上もの兵を集めて韓に侵攻したとしても不思議ではなく、英呈平原の戦いは無かった感じました。