名前 | 袁粲(えんさん) |
生没年 | 不明 |
勢力 | 西晋 |
コメント | 尚書にまで昇進 |
袁粲は正史三国志の袁渙伝の注釈・晋諸公賛や晋書に記載されている人物です。
晋諸公賛によれば、袁亮の子だとあります。
袁亮の子だと言う事は、必然と袁覇の孫という事になるはずです。
袁粲の時代になると、三国志も蜀の劉禅が魏に降伏し、魏が晋に変わり、呉の孫晧が降伏した事で三国志も終焉を迎えました。
そうした事から、袁粲は西晋時代の人と言ってもよいはずです。
因みに、南朝の宋の時代に後廃帝の後見を行い政治を牛耳った袁粲なる人物がいます。
袁粲は最終的に、南朝斉の初代皇帝となる蕭道成に敗れ滅亡しました。
宋の時代の袁粲と袁亮の子の袁粲は明らかに別人であり、注意が必要です。
尚書にまで昇る
袁粲に関してですが、晋諸公賛に次の記述が存在します。
※晋諸公賛より
袁亮の子、袁渙の字は儀祖であり、学識があり博学であった。
儒学の官を累進し、尚書にまで昇った。
これを見ると、袁粲は学識があり尚書にまで昇進した事が分かります。
袁粲の父親である袁亮もまた学識があり、虞松や荀顗らと魏の皇帝・曹髦の前で夏の少康や劉邦らについて議論した話があります。
それを考えると、袁粲も父親譲りの学識があったと言う事なのでしょう。
さらに言えば、袁亮もまた尚書にまで昇った話があり、袁粲も父親と同じだけ出世した事になります。
王詮に諫められる
いつか書きたい三国志さんに、袁粲の記述があったので紹介します。
※いつか書きたい三国志より(読みやすくする為に、一部修正しております)
何劭の弔いに、袁粲がやってきた。前に何劭へ賄賂を渡してきた袁毅の縁者だろう。
袁粲「(喪主の)何岐に会わせてくれ」
袁粲が願ったが、何岐は拒んだ。袁粲は顔に泥を塗られたから、ひとりで泣いて言った。
袁粲「オレは中正だから、人事権があるんだぞ。何岐の評価を下げて、出世できないようにしてやる」
それを見た同郷の王詮は、袁粲に言った。
王詮「どうしてキミは、死者(親の何劭)を弔いに来たのに、生者(子の何岐)に会うことに拘るか。何岐はこれまで罪が多いのに、キミは何岐の評価を下げなかった。だがキミは、親の何劭が死んだ途端に、何岐の評価を下げるという。強きを畏れ、弱きを侮る人事係だと言われるぞ」
袁粲「うぐぅ、、」
袁粲は、何岐の評価を変えなかった。
ここでの記述では、袁粲が謎の人物の様な扱いをしていますが、個人的には袁亮の子である袁粲だった様に思います。
時代的に考えても、袁亮の子である袁粲と十分に年代が合致すると思ったからです。
ここで登場する何劭は何曾の子であり、何曾は袁粲の父親である袁亮と仲が良かった人物です。
しかし、何曾と袁亮の時代に両家の中が良好であっても、世代交代して上手くいくとは限らかったのでしょう。
ここで登場する袁毅に関しては、世語の王恂の話の中で、貪欲だと記載されている人物です。
袁毅は賄賂で罰せられそうになりますが、司馬炎の判断で救われた事もありました。
袁毅は賄賂まみれだった話もあり、賄賂の贈り先でもあった何家の跡取りだった何岐を、袁粲が何とかしようとしたのかも知れません。
晋諸公賛に袁粲は学識が豊だった事は書かれていますが、人間性について書かれていないのは、性格的には褒められた人ではなかった可能性もある様に思います。
袁氏の人間は袁渙、袁侃、袁準、袁覇など人格的に優れていたと賞賛される人物が多いのですが、こうした中で袁粲は問題児の部類だったのかも知れません。