顔聚に関しては、史記の趙世家に次の記述が存在します。
李牧は誅せられ、司馬尚は庶民に落され、趙葱と斉将顔聚が用いられた。
上記の記述を見ると、顔聚は斉と関わりがある将軍だと言う事が分かります。
さらに、李牧と司馬尚の後任として、趙葱と共に顔聚が将軍になっている事も明らかです。
将軍となった顔聚ですが、結局は王翦、楊端和、羌瘣らに敗れ去り趙の首都邯鄲は落城し、趙の幽穆王も捕虜となっています。
今回は趙の最後の武将とも呼べる顔聚を題材にします。
尚、史記の記述だけだと簡略過ぎるので、物語ではありますが東周列国志の話しも入れて考察します。
斉と顔聚
斉の将軍
先に述べた様に、顔聚は「斉」と関係がある人物だと言う事になります。
史記の趙世家にある「斉将顔聚」の言葉には、二つの見方が存在します。
・斉の出身の将軍だった。
・斉王建が趙の援軍として寄越した将軍が顔聚だった。
今となってはどちらが正解なのかは不明ですが、二つの解釈を考察してみたいと思います。
斉出身の将軍説
顔聚が斉出身の将軍だった説ですが、戦国時代中期は秦と斉の二強時代でした。
しかし、燕の楽毅が斉を壊滅状態にし、斉の湣王が亡くなると斉の襄王が即位しています。
燕の昭王が亡くなり、燕の恵王が即位すると楽毅は、趙の恵文王の元に亡命しました。
燕は騎劫が将軍となりますが、斉の田単に大敗し、田単は燕に取られた斉の全ての領地を取り返しています。
斉は復興しましたが、これ以降の斉は奮わず、沈黙を続けたままで合従軍にも参加しないなど、静観を続ける国となってしまいました。
顔聚が斉で将軍として身を立てようと思ったとしたら、斉では功績を挙げる事が出来ないと判断する事になるでしょう。
顔聚は活躍の場を求めて、趙の悼襄王か幽穆王の時代に、趙に行った様に感じます。
秦の蒙恬の祖父で蒙武の父である蒙驁は、斉の出身だった話があります。
蒙驁は活躍の場を秦に求めたと思われますが、同じような理由で顔聚も趙に行き仕官した様に思います。
斉の援軍の将だった説
顔聚のもう一つの説が、斉王建が趙を援ける為に、寄越した援軍の将が顔聚だった説です。
顔聚は趙の最末期に登場する将軍ですが、趙末期では李牧が辛うじて秦を撃破していましたが、国はかなり荒廃していました。
趙の幽穆王の5年に大地震があり、6年には大飢饉が起きた記録まであります。
趙の末期であれば、斉は秦の禍を殆ど食らってはいないので、国土の狭さから全体的な国力は低いかも知れませんが、斉の国土は荒廃していなかったとも考えられます。
斉は国土は小さくても生産性は高かった様にも感じます。
しかし、斉と言えど趙が滅亡してしまえば「唇亡びて歯寒し」の原理により、秦の禍を受けてしまう事になるでしょう。
斉王建は秦の禍を受ける事を危険視し、顔聚を趙の援軍として派遣した説となります。
斉が楽毅により壊滅状態になった時に、楚の頃襄王は斉への援軍として、淖歯を派遣したのと同じような事を斉王建もしたのかも知れません。
ただし、斉王建が趙に援軍を派遣する意思があったとしても、斉では宰相の后勝など、秦から賄賂を受け取った者が多くいた事も事実です。
それを考えると、后勝などは趙への援軍を阻止しようとした可能性もあるでしょう。
顔聚の奮戦
顔聚ですが、李牧や司馬尚に代わり、趙葱と共に将軍となりました。
東周列国志では総大将が趙葱で副将が顔聚となっています。
趙葱と顔聚は出撃し、秦の王翦の軍と戦いを繰り広げる事となります。
しかし、趙葱は王翦に敗れ殺害されました。
顔聚は邯鄲の城に退却し、邯鄲の城を守備する総大将的な立場となったわけです。
この時に邯鄲の城内では、降伏派の郭開と主戦派の趙嘉で揉めており、趙の幽穆王は酒を飲み自暴自棄となっていました。
それでも、趙嘉は諦めず顔聚を補佐し、鉄壁の守を見せる事となります。
東周列国志によれば、郭開は秦と内通しており、秦と連絡を取りたかったが、顔聚と趙嘉の守が固く、秦に使者を派遣する事が出来なかったともされています。
顔聚の最後
東周列国志によれば、顔聚と趙嘉は奮戦しますが、郭開が趙の幽穆王を説得し、幽穆王は秦への降伏を決意しました。
この時に、顔聚は邯鄲の北門を守っていましたが、趙の幽穆王が降伏するとした情報を入手します。
同時に趙嘉が顔聚の元にやってきて、「邯鄲が開城し秦の兵士が入城する」と述べたわけです。
顔聚は自分が力戦する事を述べ、趙嘉には北門から脱出し、北方の代に入る様に進言しました。
趙嘉は顔聚の意見に従い、北門から脱出し趙嘉と顔聚は無事に代に辿り着き、趙嘉は代王嘉として即位しています。
これが東周列国志にある顔聚の最後の記述となります。
史記では下記の記述があります。
趙葱の軍が敗れ顔聚は逃亡した
史記の記述からは、顔聚の最後がどの様なものだったのかは分かりません。
逃亡した後の記述が不明だからです。
顔聚の評価
顔聚ですが、李牧に比べると評価はかなり低く、幽穆王の判断ミスとして評価される事が多いです。
始皇帝死後に胡亥が二世皇帝として即位すると、蒙恬、蒙毅、李斯など趙高による粛清の嵐が訪れる事になります。
胡亥と趙高のやり方を見ていた子嬰は、「趙王遷は李牧を誅し顔聚を用いて国を滅ぼした」と述べています。
子嬰は趙高を非難し、賢臣を殺害してはならないと胡亥に諫めた話しです。
他にも、漢の時代に文帝が匈奴に悩まされていた話があります。
この時に、馮唐が漢の文帝は「廉頗や李牧の様な将軍がいても、使いこなす事が出来ない」と述べました。
この後に、馮唐は李牧と顔聚を交代させた事を失敗例だとして挙げています。
世間では李牧に比べると顔聚の評価は大きく低く、さらに言えば趙の幽穆王の人事の失敗として顔聚は挙げられるのが普通です。
ただし、顔聚が将軍になった時には、既に趙は絶望的な状況にあり、司空馬は「李牧が生きていたとしても半年しか持たない」とも述べています。
司空馬の言葉を考慮すれば顔聚と趙葱が将軍を引き受けたのは、男気があったと言うべきかも知れません。
負けて当然の戦いで将軍となったのが顔聚だった様にも感じます。