魏無知は戦国四君の一人である、信陵君の子孫だとも言われています。
魏無知は劉邦の謀臣である、陳平を推挙した事でも有名な人物です。
陳平は後に漢の丞相になるなどしていますが、魏無知がいなかったら陳平の出世はなかったのかも知れません。
劉邦の死後に呂后が実権を握り、呂氏の権力が拡大されますが、陳平が周勃と協力し再び、劉氏に政権を戻しています。
それを考えれば、魏無知がいなければ楚漢戦争で劉邦は項羽に勝てなかったのかも知れませんし、劉邦の漢王朝は早い段階で劉氏は力を失っていた可能性もあるでしょう。
今回は陳平を推挙した魏無知を解説します。
尚、魏無知の名前は「無知」ですが、実際の人間は無知ではなく、優れた人物だと感じます。
信陵君の子孫
先にも述べた様に、魏無知は戦国四君の一人である信陵君の子孫だと伝わっています。
それを考えれば、魏無知には戦国の魏王家の血が流れていると言えるでしょう。
信陵君が亡くなった時に、韓王が信陵君への弔問の使者を信陵君の子へ出した話があります。
信陵君の子は子順の言葉に従い、韓王の弔問を断わりました。
これを考えると、魏無知は信陵君の子で、子順の進言に従った人物の子となるのかも知れません。
魏無知が信陵君の子孫とされているのは新唐書だとする話があり、史記や漢書に魏無知の一族に対する記述があるわけではありません。
その為、魏無知と信陵君が、どれほどの関わりを持っていたのかは不明です。
陳平と知り合う
陳平は劉邦に仕えますが、史記や漢書によれば、魏無知の口添えにより、陳平は劉邦を謁見する事になったとあります。
魏無知が陳平を推挙するには、陳平と魏無知が、どこかで接点がないとおかしい事になるでしょう。
一般的に言われているのは、陳平は周市に擁立された、魏咎に仕えた時となります。
この時に、魏無知と陳平は知り合ったのではないか?とする説です。
魏無知が魏王家と所縁が深い人物であれば、魏咎に仕えてもおかしくはない様に思います。
他にも、魏無知と陳平が接点を持つとしたら、陳平は張負という資産家の孫娘と結婚した話があります
陳平は張負の孫娘と結婚したお陰で財力を得て、多くの有力者と交わりを結んでいます。
この時の有力者の中に魏無知がおり、陳平と魏無知も知り合ったのかも知れません。
魏無知が劉邦に仕える
魏無知が陳平を劉邦に推挙するには、魏無知が既に劉邦の配下になっていなければならないはずです。
魏無知が魏咎に仕えていたとしたら、魏咎が章邯に敗れた後に、魏咎の従弟である魏豹に仕えずに、劉邦に仕えたとなるのかも知れません。
それか、劉邦は信陵君を崇拝していた話しもあり、魏無知が本当に信陵君の子孫であれば、劉邦が魏無知を配下に臨んだ様に思います。
それでも、項羽が18の諸侯に分封した時に、魏豹は西魏王に封じられていますが、魏豹とは行動を共にせず、劉邦に合流した可能性もある様に思いました。
しかし、これらはあくまでも想像であり、魏無知の行動はよく分からないのが実情です。
ただし、魏無知が劉邦に仕えた事だけは間違いないでしょう。
陳平を推挙
魏無知の最大の功績と言えば、陳平を推挙した事になるはずです。
陳平を推薦
陳平は項羽の配下として、反旗を翻した殷王・司馬卬を降します。
しかし、司馬卬は漢と戦うと、簡単に劉邦の降伏した事で、項羽は激怒しました。
司馬卬が直ぐに漢に降伏してしまった責任は、司馬卬を討伐した陳平にあるとしたわけです。
項羽の理不尽にも感じますが、陳平は身の危険を感じ、劉邦の元へ逃亡しています。
劉邦の元を訪れた陳平を劉邦に推挙したのが、魏無知だったわけです。
劉邦は魏無知が推挙した陳平の話を聞くと大いに気に入り、重用する事になります。
能力と素行
劉邦は陳平を重用しますが、周勃や灌嬰などは新参者の陳平が自分らの上に立ったのが許せず、劉邦に陳平を讒言しました。
周勃や灌嬰は陳平が「兄嫁と私通したとか、賄賂を貰っている。」と述べたわけです。
劉邦は陳平を疑い、魏無知を呼び問責します。
劉邦は陳平が賄賂を取ったり、兄嫁と私通を行った事が本当かと問われると「本当の事」と述べています。
劉邦は不思議に思い魏無知に「其方が陳平を賢人だと呼ぶのはなぜか。」と問うと、魏無知は次の様に答えました。
魏無知「私が申したのは陳平の能力の事であり、陛下(劉邦)が申したのは素行の事でございます。
今の時勢において尾生や孝己の様な者がいても、戦いの勝敗には無関係であり、その様な者を用いる余裕もないはずです。
現在は漢と楚が激しく争っており、私は奇謀の士を推挙したまででございます。
陳平の謀が、漢に貢献できるかどうかを、考えるのみであります。
嫂と通じたり、お金を貰う受けたなど、陳平を疑うには足りぬ事です。」
魏無知の言葉を聞き終わった、劉邦は陳平を呼び出す事になります。
劉邦は陳平の話を聞くと、納得した部分が多く、さらに陳平を重用する様になったわけです。
尚、魏無知の口からでた尾生は約束を意地でも守った頑固者であり、孝己は殷の武丁の子で孝名が高かった人物となります。
陳平は楚漢戦争において離間の計で項羽と范増の仲を裂いたり、韓信が斉王になりたいと言った時は、張良と共に怒る劉邦を止めた話があります。
天下統一後に劉邦は、匈奴の冒頓単于と白登山の戦いを起こしますが、窮地に陥っています。
ここでも陳平は策を出し、冒頓単于の包囲を解かせています。
陳平の漢への貢献度を考えると、魏無知が劉邦に陳平を推挙した功績は大きいと言えるでしょう。
陳平が恩を返す
楚漢戦争終了後に、劉邦は陳平の功績を認め、五千戸の戸牖侯に任命しようとします。
ここで陳平は「自分の功績ではない。」と言い断りを入れます。
劉邦は陳平の功績を挙げて持ち上げますが、陳平は次の様に述べています。
陳平「魏無知がいなかったら、私は功績を挙げる事が出来ませんでした。」
劉邦は陳平の言葉に感じ入り、陳平を「本に背かない人」と評しています。
劉邦は魏無知にも褒賞を与える事にしました。
魏無知も恩賞を貰う事が出来た様ではありますが、どこに封じられたかや、どれ位の恩賞を貰ったのかは定かではありません。
魏無知の評価
魏無知の功績は陳平を推挙した事くらいしか記録にありません。
魏無知がどこで亡くなったのかも、分からない状態です。
陳平は韓信、張良、蕭何の漢の三傑には選ばれていませんが、それに次ぐ功績を挙げています。
劉邦の功臣たちの中では、周勃と共に漢の文帝の時代まで生き残り、劉氏政権の継続に貢献したわけです。
それを考えれば、陳平を推挙した魏無知の功績は大きいと言えるでしょう。
斉の桓公を春秋五覇の一人に挙げられる程に、貢献したのは管仲となります。
しかし、管仲は鮑叔の推挙が無ければ、斉の桓公の宰相になる事も出来ませんでした。
史記によれば世の人々は「管仲の賢明さよりも鮑叔の人を見る目」を賞賛したとあります。
どんなに能力があっても、自分を引き立ててくれる人物がいなければ、大成しないとする話もあります。
それを考えると、魏無知が果たした役割は大きいと言えるでしょう。
魏無知も人々から賞賛される素養は十分にある様に感じています。
魏無知と曹操
三国志の魏の曹操は優れた人材を好んだ話があります。
西暦210年頃ともされていますが、曹操の口から次の様な言葉が出ています。
曹操「盗嫂受金した者で魏無知にあう事が出来ていない者はいるか。
儂を補佐する才能があれば、私は任用する事に致す。」
曹操の名前から魏無知の言葉が出ている事が分かります。
盗嫂受金は兄嫁と私通し、賄賂を受け取った者を指します。
盗嫂受金は陳平の事であり、曹操は素行が悪くても能力があれば優遇すると言いたかったのでしょう。
さらに、曹操自身が魏無知になるとも言いたかったはずです。
曹操の言葉からも魏無知の名前が出ている辺りは、後世の魏無知の評価が高かった事が分かります。
自分の功績が無くても、優れた人物を推挙できる人物は賢人となるのでしょう。