名前 | 五条頼元(ごじょうよりもと) |
生没年 | 1290年ー1367年 |
時代 | 南北朝時代 |
主君 | 懐良親王 |
一族 | 父:清原良枝 兄弟:清原宗尚 子:良氏、頼顕、良遠 |
コメント | 懐良親王を30年に渡り補佐した |
五条頼元は懐良親王を30年に渡り支えた人物です。
後醍醐天皇は五条頼元に幼き懐良親王を預け九州に向かわせました。
五条頼元は幼少の懐良親王に代わり、九州南朝の指導者的な役回りとなります。
後に懐良親王と共に菊池武光の居館に移ると、室町幕府では観応の擾乱で争い、この隙に九州征西府は勢力を拡大しました。
九州南朝は九州を席巻し全盛期を築きますが、五条頼元の貢献度は非常に高かったと言えるでしょう。
五条頼元は九州南朝興隆の立役者です。
五条頼元の経歴
五条頼元は清原良枝の子で、父親の清原良枝は儒家でもあります。
建武の新政で五条頼元は雑訴決断所、記録所、恩賞方の職員を行っており、事務仕事には定評があったのでしょう。
建武政権が崩壊し、後醍醐天皇が吉野に還幸すると南北朝時代が始まりますが、五条頼元は意外にも北朝に属しました。
五条頼元は光厳上皇の院政を輔弼し、訴訟審理機関である文殿となった事が分かっています。
建武四年(1337年)の暮れ頃までは北朝に在籍していましたが、何を思ったのかは不明ですが南朝に鞍替えし京都を離れたわけです。
さらに、翌年の9月には後醍醐天皇の皇子である懐良親王を補佐し、九州への下向を目指す事になります。
懐良親王はまだ子供であり、五条頼元の決断が今後を左右する事になり、後醍醐天皇から重要な任務を与えられたと言えるでしょう。
尚、後醍醐天皇は皇子を預ける場合は、次の図に分かる様に武士が多かったわけです。
五条頼元は事務官僚でしかなく、後醍醐天皇が懐良親王を五条頼元に預けた理由は分かっていません。
後醍醐天皇の崩御
この時に懐良親王と五条頼元は伊予にいましたが、後醍醐天皇は懐良親王に綸旨を下し、五条頼元に宛てられた綸旨には懐良親王には如何に期待しているのかが述べられています。
尚、後醍醐天皇は生涯において多くの綸旨を発行しましたが、懐良親王及び五条頼元への綸旨が最期のものとなっています。
後村上天皇も懐良親王や五条頼元に綸旨を発行しており、四条隆資副状によれば「九州の事は懐良親王に任せる」とし、令旨で下知して欲しいと伝えています。
薩摩に上陸
懐良親王と五条頼元は1341年頃に薩摩に上陸し、谷山に5年程滞在する事になります。
薩摩に上陸した時の懐良親王の年齢は10歳前後と考えられており、依然として五条頼元の役割は重要でした。
谷山に滞在していた時期の五条頼元が最も腐心したのが、阿蘇大宮司を如何にして味方につけるのかだったわけです。
阿蘇氏では惣領の阿蘇惟時と庶子家筆頭の阿蘇惟澄の関係が悪化していました。
阿蘇惟澄は南朝支持を鮮明にしますが、阿蘇惟時は態度が曖昧であり、五条頼元のストレスを募らせる結果となります。
薩摩においても谷山隆信は南朝支持を示しますが、島津貞久は北朝を支持していました。
それでも、五条頼元は恩賞などを約束させるなどし、何とか南朝の味方になる様に、阿蘇氏を筆頭に様々な武士に呼び掛けています。
当時は恩賞問題が慢性化しており、北畠親房なども五条頼元と同様に手紙を出し、恩賞の約束をし味方になる武士を増やそうとした話があります。
五条頼元と阿蘇惟時
懐良親王は後に五条頼元と共に肥後の益城郡の御船城に入りました。
この時に、阿蘇惟時が御船御所に拝謁にきたわけです。
阿蘇惟時は懐良親王や五条頼元と面会しています。
五条頼元は阿蘇惟時がやってきた事を喜び「日来の本意、満足に候」とする言葉を残しています。
しかし、五条頼元や懐良親王の期待とは裏腹に、この後も阿蘇惟時は室町幕府に味方したかに思えば、南朝を支持するなど曖昧な態度を繰り返しました。
懐良親王や五条頼元は阿蘇惟時が南朝の傘下となり惣領として活動し、阿蘇惟澄が庶子家筆頭として惣領家を支える体制を望みますが、中々実現できなかったと言えるでしょう。
懐良親王と五条頼元らは菊池武光の居城に移りました。
菊池氏の館が懐良親王の御所となったわけです。
五条頼元としては最初は予定通りに肥後の阿蘇氏を頼ろうとしましたが、阿蘇氏は南朝で纏められず菊池氏のお世話になる事に決めたのでしょう。
懐良親王の元服
菊池氏に居を構える時代に懐良親王は元服し成人となっています。
これまでの五条頼元は実質的な九州南朝の指導者でしたが、ここから先は懐良親王を中心とする体制に変わって行く事になります。
五条頼元は主導者から、懐良親王を補佐する立場に変わっていきました。
室町幕府では観応の擾乱が勃発すると、九州でも足利直冬・少弐頼尚と一色道猷の対立があり、足利直冬が九州からの撤退を余儀なくされました。
こうした時期に懐良親王を奉じた菊池武光は五条頼元、阿蘇惟澄らと共に出陣し、筑後国府に兵を進めるなど戦果を挙げています。
後村上天皇と五条頼元
南朝は正平一統を破棄し、京都を攻撃するなどした時に、四条隆資が戦死しました。
さらに、1354年には北畠親房も亡くなっています。
こうした時期に後村上天皇は五条頼元の子である五条良氏に手紙を出しています。
五条良氏への手紙の中で後村上天皇は「南朝の老臣たちはいなくなってしまい、後醍醐天皇の遺命を守っているのは五条頼元だけになったしまった」と綴りました。
後醍醐天皇の時代からの臣下は五条頼元だけになってしまい、後村上天皇にも寂しい思いがあったのでしょう。
尚、ここで登場した五条頼元の子である五条良氏は、五条頼元よりも早い正平十四年(1359年)10月に亡くなっています。
五条頼元の最後
九州南朝では菊池武光の活躍もあり、筑後川の戦いで勝利するなど九州南朝の全盛期を築き上げました。
室町幕府では斯波氏経や渋川義行らを九州に向かわせますが、いずれも失敗しています。
1365年に五条頼元は出家し宗性を名乗りました。
五条頼元は出家した時には、既に体調を崩すなどの事があったのかも知れません。
正平二十二年(1367年)5月に五条頼元は筑前の三奈木荘で亡くなりました。
五条頼元は懐良親王に30年ほど仕えた事になるでしょう。
合戦での派手な活躍はありませんが、九州征西府を成功に導いた一人だと言えます。