ハンムラビ法典は、名前からも分かるようにバビロン第一王朝(古バビロニア)のハンムラビ王が制定した法律です。
ハンムラビ法典は、「目には目を」「歯には歯を」という「同害復讐法」が基本であり、「目を潰されたら目を潰していい」という恐ろしい解釈をする人もいます。
しかし、ハンムラビの狙いとしては、法律を明文化する事で公平性を出し国を治める事を考えた様です。
ハンムラビ法典は裁判の手引書でもあります。
尚、ハンムラビ法典が制定されたのがハンムラビ王が在位中である紀元前1792年から紀元前1750年とかなり古く現在の価値観とは違った部分もあります。
現在では考えられない様な法律もあるので、バビロン第一王朝の最盛期の王であるハンムラビ王が如何に考えてハンムラビ法典を成立させたのかも合わせて解説します。
因みに、バビロン第一王朝があったバビロニアは、メソポタミアの文化の中心地でもあり、ハンムラビ法典が出来るのは必然の流れだったのかも知れません。
ハンムラビ法典では倍返しはご法度
ハンムラビ法典と言えば、「目には目を」「歯には歯を」の意識が強く復讐法だと考える人もいます。
しかし、ハンムラビ法典の考え方としては「目を潰されたら自分の目を潰すしか償いようがない」という解釈が正しい様です。
復讐ではなく償う為の方法と考えるとニュアンスは変わってくるはずです。
さらに、ハンムラビ法典では過度な復讐を防止する役割もあったとされています。
ハンムラビ法典では「倍返し」は許される事ではありません。
目を潰されたのに、相手の目を潰し歯を折り内臓を破裂させるなどは絶対に許されない事なのです。
尚、「目には目を」の考え方は、ハンムラビ王が考え出したわけではなく、当時から隣の集落の人に人が殺された場合は、殺した人の集落でも相手に納得して貰う為に自分の集落の人を殺した話もあります。
ハンムラビ王の偉大な所は、当時の何となくの風習を明文化した事にあるのでしょう。
ウルナンム法典との違い
ハンムラビ法典は、シュメール人が建てたウル第三王朝にあったウル・ナンム法典をベースにしていると考える人もいます。
ハンムラビ法典がほぼ全文が残っているのに対して、ウル・ナンム法典は断片的にしか残っていません。
その為、本当にウル・ナンム法典が元になっているのかは分からない部分もあるわけです。
ウル・ナンム法典では、「目には目を」というよりは、お金を支払って賠償する考えが強かったともされています。
「目には目を」は同じ身分限定
ハンムラビ法典で有名な「目には目を」は同じ身分が限定となります。
当時のバビロンでは「自由民」「奴隷」「自由民と奴隷明の中間」の3つの身分がありました。
ハンムラビ法典では「自由民が自由民の目を潰した場合は、相手の目を潰せる」事になります。
実際にハンムラビ法典の第196条には「自由民が自由民の目を潰した時は、彼の目を潰されるべし」とあるわけです。
自由民が奴隷の目を潰したり歯を折ったとしても、お金で解決する事となり完全に平等な法律ではありません。
ハンムラビ法典の内容
ハンムラビ法典の内容の一部を解説します。
ビールに関する法律
ハンムラビ法典ではビールに関する法律も制定されています。
バビロン第一王朝では、ビールを報酬にしていた事もあったらしくビールに関する厳しい法律もあった様です。
代表的なのを紹介しておきます。
粗悪なビールを売ったら水に投げ込まれる
居酒屋の女主人が不当に価格を釣り上げたら水に投げ込まれる
女性(修道女?)が居酒屋に行ったら処刑
上記の様な厳しいルールがあった様です。
昔も今の粗悪な物を作ってはいけないという事なのでしょう。
居酒屋の女主人が不当に価格を釣り上げたら罰がある事を考えて、当時のバビロンでは居酒屋などの酒場では女性が主人を務めるのが普通だと考える人もいます。
女性が居酒屋に行ったら処刑と言うのは、今で行ったら考えられないでしょう。
ただし、女性に関しては修道女が居酒屋に行ったら処刑と解釈する方もいます。
男女の法律
ハンムラビ法典では、男女の事に関しても定められています。
代表的な男女の法律を紹介します。
男性に落ち度がなく妻が夜の営みを拒んだら、女性は水に投げ込まれる
女性が妊娠出来ない体であれば離婚してもOK
上記を見ると「酷いな~」と思うかも知れませんが、実際にはハンムラビ王の人口を増やす狙いがあった様です。
当時の情勢ですと人口が多い民族が圧倒的に有利であり、人口が少ない民族は数で圧倒されて滅んでしまった例もあります。
高度な文明を持ったシュメール人が滅んだのは、少数民族だったからではないか?と考える人もいます。
ハンムラビ王の人口を増やす為の政策が夜の営みを積極的にし、子供が生めないのであれば別れる事もOKとしたのでしょう。
仕事に関する法律
ハンムラビ法典では仕事に関しても法律を制定しています。
メソポタミア地方では、シュメール人が白内障の手術をしていた記録があり、バビロン第一王朝でも手術は行われていた様です。
ただし、医師が手術を行い患者が死亡したり盲目になってしまったら、医師の指が切断されるなどの法律も制定されています。
それを考えると、当時の医師は手術を行う時のプレッシャーも大きかった事でしょう。
他にも、大工が手抜き工事で家が崩壊し、その家に住む男性が亡くなった場合は、大工は死刑。
家が崩壊し子供が亡くなった時は、大工の子が死刑となります。
昔も今も手抜き工事は許されるものではないのでしょう。
ユーフラテス川に関する法律
バビロン第一王朝が首都としたバビロンはユーフラテス川の近くに作られた都市であり、ユーフラテス川はバビロンの民にとっても重要な河川でした。
ハンムラビ法典にはユーフラテス川に関わる法律もあった事が分かっています。
ハンムラビ法典の第240条には河川を遡る場合の船の責任が明記されているのです。
メソポタミアの地では、陸上交通よりも海上交通が発達していて、船が衝突したりと問題も起きていた事が分かっています。
ユーフラテス川は多くの船が行き来する事もあり、明確な決まりが必要だったのでしょう。
ハンムラビ法典で国は治まったのか
ハンムラビ法典でバビロンの国内はよく治まった話もあります。
しかし、実際のバビロン第一王朝の栄華は20年しかなかったとも言われています。
東アジアにおいて春秋戦国時代の勝者となった秦は統一後20年ほどで滅んでいますが、秦は過酷な法律を国民に課した事で滅んだとも言われています。
ハンムラビ法典で、過度な法律を人民に課した事で滅んだと考える人は少ないです。
実際にバビロン第一王朝はハンムラビ王以降は弱体化しますが、ハンムラビ法典が悪いわけではなくメソポタミアの開けた地形に原因があるのでしょう。
攻めやすく守りにくいメソポタミアの地系は、外敵の侵入を許しやすく一度躓いてしまうと弱体化が加速されます。
バビロン第一王朝も衰えた所に、小アジアからヒッタイトが攻めて来て滅んでいます。
当時のヒッタイトは鉄の武器を持っていましたが、バビロンの軍は青銅の武器で戦っていました。
武装度の違いがバビロン第一王朝を滅ぼしたと言えるでしょう。
ハンムラビ法典の現物はルーブル美術館にある
ハンムラビ法典の現物ですが、パリのルーブル美術館にあります。
日本にもレプリカですが、東京の古代オリエント博物館にあるようです。
興味がある方は見学に行くのもお勧めです。