名前 | 畠山国清 |
生没年 | 不明 |
時代 | 南北朝時代 |
勢力 | 北朝・室町幕府 |
コメント | 関東執事となるも畠山国清の乱を起こす |
畠山国清は足利尊氏の薩埵山体制において、河越直重や宇都宮氏綱らと共に重用された人物です。
畠山国清は鎌倉公方の足利基氏を補佐する関東執事となりました。
しかし、足利義詮の南朝征伐に加わりますが、部下を統率する事が出来ず、帰国後は多くの武士を処罰した事で反発が起きました。
事態を重く見た足利基氏が動き、追い詰められた畠山国清は伊豆で反乱を起こしています。
これが畠山国清の乱です。
畠山国清の乱は激戦が繰り広げられますが、最終的に畠山国清が敗れ最後を迎えています。
今回は室町幕府の関東執事になった畠山国清を解説します。
尚、南北朝時代に日向守護として活躍した畠山直顕がいますが、畠山直顕は畠山国清の曽祖父にあたる畠山国氏の弟である義生(美濃畠山氏)の家系となります。
畠山国清の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴出来ます。
家督を継ぐ
畠山国清は足利一門である畠山家国の子として生まれました。
1335年に北条時行による中先代の乱が勃発しますが、梅松論によると、この時に畠山家国が戦死しました。
畠山氏の嫡流の当主である畠山家国が亡くなった事で、畠山国清が歴史に登場する事になります。
中先代の乱の伊豆国府合戦で畠山家国が亡くなった事で、畠山国清は家督を継ぎました。
1336年に和泉の国人である日根野道悟に対し、和泉国長滝荘を預かりおきし恩賞予約したのが活動の始まりとも見られています。
日根野道悟の件から畠山国清が1336年の段階で和泉国の国大将だったのではないかと考えられています。
さらに、畠山国清は和泉国の守護になったとされています。
初期の畠山国清は近畿地方での活動が見られ、後に和泉守護が細川顕氏が任命され、畠山国清は紀伊守護として活動する様になりました。
畠山国清と言えば関東執事のイメージが強い様に思いますが、活動の初期は和泉や紀伊など近畿で活動していた事が分かっています。
尚、後醍醐天皇は大和の南部にある吉野で南朝を開いており、その背後とも言える紀伊は室町幕府にとって重要な地域だったはずです。
室町幕府では紀伊国の援兵として細川皇海や小俣覚助らを紀伊に向かわせた話もあります。
紀伊守護・畠山国清
1347年に南朝の楠木正行が挙兵し高師直との間で四条畷の戦いが勃発しました。
さらに、翌年の1348年には足利直冬による紀伊征伐が実行されています。
高師直の四条畷の戦いや足利直冬の紀伊征伐では、畠山国清は側面からの支援だったのではないかと考えられています。
足利直冬の紀伊征伐では「紀伊守護」畠山国清が積極的に戦ってもよさそうですが、現在のところ積極的な軍事行動を取った形跡が見つかっていません。
1349年になると畠山国清は再び和泉守護に返り咲きました。
和泉守護は高師泰でしたが、長門・石見・備後の守護に移っており、これに応じて畠山国清を和泉守護としたのでしょう。
尚、高師泰が和泉だけではなく河内の守護も兼任しており、畠山国清が河内守護も兼務したのではないかとする説もあります。
観応の擾乱
直義を支持
室町幕府内で高師直の発言権が増し、足利直義が政争に敗れ出家した事件が起きました。
これが観応の擾乱です。
足利尊氏と高師直は九州にいる足利直冬を討つために出陣の準備をしますが、この時に突如として足利直義が姿を眩ませました。
足利尊氏と高師直は足利直冬討伐を決行しますが、畠山国清は足利直義を河内国の石川城に迎え入れていたわけです。
畠山国清は足利直義に与し、桃井直常、斯波高経、細川顕氏、石堂頼房らが直義派として形成されました。
戦力において足利直義は尊氏を圧倒しており、多々良浜の戦いで勝利し高師直は最後を迎えています。
足利直義が高師直を破った背景には、早々と直義支持を表明した畠山国清の活躍があったと言えるでしょう。
畠山国清は恩賞として引付頭人となり、修理権大夫を与えられ従五位上の官職も賜わりました。
尊氏に鞍替え
高師直の死で幕府内の混乱は収まったかに見えましたが、足利義詮と足利直義の対立もあり、今度は足利尊氏と直義の戦いとなってしまいました。
足利尊氏と足利義詮は南朝に与した佐々木道誉と赤松則祐を討つために、近江と播磨に出陣しますが、これを怪しんだ足利直義は北陸に出奔しています。
この時の畠山国清は足利直義に近い人間であり、斯波高経、桃井直常、山名時氏、上杉朝定らと共に直義を支持しました。
尚、畠山国清は足利直義への支持を鮮明にした事で、足利尊氏から紀伊や和泉の守護職を解任されたと考えられています。
足利尊氏と直義の戦いですが、そもそも派閥の長である足利尊氏が本気で足利直義を討つ気が無かった為か、和睦が進められる事になります。
この時の和睦調整をしたのが畠山国清や細川顕氏でしたが、桃井直常が尊氏との和睦の強く反対した事で、破断となり足利直義は鎌倉に入りました。
畠山国清は和睦が破綻した事で面目を失い激怒し、出家すると言い出しますが、足利尊氏の説得により尊氏派として活動する事になります。
畠山国清は足利尊氏の配下として戦い、観応の擾乱は足利直義が戦いに敗れ病死した事で終焉しました。
武蔵野合戦
足利尊氏は直義との戦いには勝利しましたが、関東は直義派が活発であり、旧直義派と南朝の連合軍との戦いとなります。
これらの戦いを武蔵野合戦と呼びます。
南朝の新田義興、義宗や北条時行に旧直義派の重鎮・上杉憲顕が加わりました。
武蔵野合戦で畠山国清は金井原の戦いや小手指原の戦いに参戦し、相模の河村城に転戦しました。
畠山国清は話の成り行きで近畿から東国に遠征してきましたが、従った近畿の国人は和泉国の日根野氏のみだったとされています。
武蔵野合戦は一時的に南朝が優勢となり鎌倉の奪還しますが、態勢を整えた足利尊氏が日増しに優勢になり、幕府軍の勝利に終わっています。
伊豆守護と関東執事
足利尊氏は畠山国清を伊豆守護に任命した事が分かっています。
畠山国清は遊佐氏を守護代としました。
足利尊氏が関東で奮戦している間に、京都では南朝の後村上天皇の軍が北上させ、足利義詮を駆逐し北朝の天皇や皇族を拉致していたわけです。
足利尊氏は1353年に京都に戻る事になります。
帰洛した足利尊氏ですが、鎌倉公方の足利基氏を畠山国清らで補佐する体制を作りました。
足利尊氏は畠山国清を関東執事に任命し、直義討伐で桃井直常を撃破した宇都宮氏綱や平一揆の河越直重を重用したわけです。
この時点で畠山国清は活動の本拠地を関東に移したと言えるでしょう。
畠山国清は妹を足利基氏に嫁がせるなど、足利家との関係を深めました。
関東執事と関東管領
畠山国清は関東執事になると鎌倉府管轄国内の土地の沙汰に関する施行状を発行しています。
鎌倉の管轄内の土地の沙汰をしている事から、畠山国清は武蔵守護も兼任していたのではないかと考えられています。
畠山国清は室町幕府から伊豆国の土地の沙汰付きを頼まれており、関東執事としての職務が後の関東管領に繋がったとされています。
足利尊氏が1358年に没すると、新田義興は好機到来とばかりに動き出しました。
足利基氏や畠山国清は策略を使い武蔵国矢口渡で新田義興を討ち取った話が残っています。
関東では南朝の脅威を減らす為に、畠山国清は尽力したと言えるでしょう。
河内・紀伊での戦い
足利義詮が室町幕府の征夷大将軍となりますが、義詮は南朝討伐を決定しました。
足利義詮は足利基氏に援兵を依頼し、関東執事の畠山国清が総大将となり、関東の武士たちを引き連れて近畿に向かいます。
関東軍を率いた畠山国清は河内国四条村で南朝の軍と交戦したり、平石城や楠木館でも戦いを繰り広げています。
この時に畠山国清の弟である畠山義深は紀伊にまで遠征した記録があり、畠山国清が河内や紀伊の守護職に復帰したのではないかともされています。
上洛した畠山国清は戦果を挙げて京都に戻りました。
関東武士の離脱
表向きは南朝討伐だったわけですが、幕府内では細川清氏と仁木義長の対立が激化しました。
幕府内での政争に畠山国清は積極的に動き、細川清氏を支持しています。
細川清氏を積極的に支持する畠山国清の姿を見た東国の武士たちは、理由を付けて帰国する者が多くなりました。
関東から遠い近畿で戦う坂東武士たちは、そもそも最初から戦意が薄く、ちょっとの事で帰国する者が多かったわけです。
こうした中で畠山国清も帰国せざるを得ない状況になりました。
畠山国清の失脚
畠山国清は関東に戻ると関東執事の権限を使い、無断で帰国した東国武士に対し所領没収など厳しい措置を行いました。
関東では反畠山国清とも言える精力が集結し、鎌倉公方の足利基氏に罷免を要求した話があります。
この時に室町幕府内では執事の細川清氏が失脚しており、畠山国清も連動して失脚したのではないかとも考えられています。
近畿の戦いで畠山国清が細川清氏に接近したのは、悪手だった可能性もあるはずです。
畠山国清の乱
畠山国清は失脚した事に我慢が出来ず、伊豆に籠城し反旗を翻しました。
これが畠山国清の乱です。
1361年11月に足利基氏は兵を集め岩松直国らと共に、畠山国清討伐に向かう事になります。
畠山国清は鎌倉府の軍勢を打ち破るために、伊豆の三戸城、神益城、立野城の防備を固めました。
足利基氏の軍は三戸城を落し畠山軍の物資を不足させ、神益城も落し畠山国清は立野城に籠り防戦する事になります。
畠山国清の乱は1362年まで続いた事が分かっており、激戦だった事は明らかでしょう。
畠山国清は武士たちに対し人望は無さそうですが、修善寺などの寺院勢力と深く結びつき抵抗したと考えられています。
1362年9月に足利基氏が箱根に到着し、これにより畠山国清の乱は終結しました。
伊豆守護代の遊佐氏が誅殺され、当の畠山国清は時衆、陣僧の援助により京都や奈良に逃亡したとされています。
その後の畠山氏
畠山国清の乱により畠山国清の一族は幕府の中枢から外れてしまいますが、畠山国清の子である畠山義清が許され足利義満に近侍する事になりました。
しかし、畠山義清は後に追放されています。
畠山国清の弟の畠山義深は越前守護として復帰しました。
畠山義深の子の畠山基国は越中、河内、能登の守護を歴任し、その後に幕府管領となっています。
畠山国清の弟の畠山義深の血筋が、幕府の三管領の一つになったわけです。
畠山国清は関東で乱を起こしましたが、一族は近畿で復活したと言えそうです。
畠山国清の動画
畠山国清のゆっくり解説動画となっております。
この記事及び動画は南北朝武将列伝北朝編をベースにして作成してあります。