名前 | 費禕(ひい) 字:文偉 |
生没年 | 生年不明ー253年 |
時代 | 後漢末期、三国志、三国時代 |
主君 | 劉璋→劉備→劉禅 |
一族 | 子:費承、費恭 一族:費伯仁、費観 |
年表 | 243年 大将軍、録尚書事となる |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
費禕は正史三国志に登場する人物で蜀漢に仕えました。
費禕は諸葛亮や蔣琬、董允と共に蜀の四相に選ばれている人物でもあります。
費禕の前に蜀の宰相となった諸葛亮や蔣琬は、魏打倒を志しましたが、費禕に関しては北伐を行う気もなく守成に徹しました。
姜維が北伐を行いたいと述べても、大規模な兵を与える事はなかったわけです。
一般的には費禕は有能だとされていますが、一部では権力闘争や政争しか行っていないとする指摘もあり、評価が分かれる人物でもあります。
魏延や楊儀の最後にも費禕が関わっており、政敵を消したのではないか?とする見方も存在します。
それでも、費禕は多くの人と交流し、蜀漢内部の人事の調整役を担っている様にも感じました。
さらに言えば、費禕の守りに徹する姿勢は決して間違っていたわけでもなく、費禕が亡くなると陳祗と姜維のコンビが北伐を行いますが、蜀の国は鄧艾に敗れた事もあり疲弊しています。
因みに、費禕は253年に魏の降将の郭循により暗殺され最後を迎えました。
今回は諸葛亮、蔣琬と続く蜀の三代目宰相である費禕を解説します。
尚、作家の宮城谷昌光氏は書籍。三国志名臣列伝・蜀編の中で名臣の最後の一人として費禕の名前を挙げています。
蜀に入る
費禕は荊州江夏郡鄳県の出身だと正史三国志にあります。
費禕は幼い頃に父親を亡くしてしまい、族父の費伯仁の元で育つ事になります。
費伯仁の姑(おば)が益州牧の劉璋の母親でした。
劉璋は費伯仁を呼び寄せ、費禕も費伯仁と共に蜀に入りました。
費禕は蜀に遊学する事になりますが、費用などは費伯仁が出したのでしょう。
後に劉備が張魯討伐の名目で益州に入り、劉璋を打倒してしまいました。
劉備が益州の主となりますが、費禕はそのまま益州に留まる事になります。
益州での費禕の名声は高く、汝南の許叔龍や南郡の董允らと同等だったとあります。
董和のテスト
劉備政権では許靖を司徒とし重用しますが、許靖の子が亡くなってしまいました。
この時に費禕と董允は、許靖の子の葬式に出たいと考えたわけです。
董允は父親の董和に馬車を使いたいと述べると、董和は後部の開いた鹿車を用意しました。
鹿車は鹿一頭くらいしか乗せる事が出来ない様な貧相な車であり、董允は乗るのが恥ずかしいと思ったのか、中々乗ろうとはしなかったわけです。
しかし、費禕は鹿車の前から直ぐに乗り、董允と共に葬儀場に向かう事になります。
司徒・許靖の子の葬儀というだけの事はあり、葬儀場には諸葛亮ら政府高官が集まっており、皆が立派な馬車で来ていました。
董允は諸葛亮らの立派な馬車を見ると、鹿車で来た事が恥ずかしく不安になります。
董允とは対照的に費禕は落ち着き払っていました。
鹿車を与えた董和は、後に御者に対して費禕と董允の様子聞き知ると、董允に次の様に述べています。
※正史三国志費禕伝より
董和「私は普段からお前(董允)と文偉(費禕)のどちらが優れているのかを観察していた。
今では、どちらが優れているのかよく分かった」
董和は自分の子である董允よりも、費禕の方が優れていると述べた事になります。
董和は人の目を気にしない費禕の方を高く評価しました。
董和はわざと董允に鹿車を渡し、テストしたと見る事が出来るでしょう。
董和の董允に関する言葉は酷い様に思うかも知れませんが、董允の奮起にも期待した部分もあると感じています。
費禕別伝に費禕に関する人柄の記述があり、費禕は慎み深く質素な性格で蓄財を行う事も無かったと言います。
費禕は子供たちである費承や費恭にも質素な服装をさせていました。
費禕は酒は好んだようですが、食事も質素であり、飾らない性格でもあったのでしょう。
こうした事もあり、費禕は見栄えが悪い鹿車であっても、気にしなかったとも言えます。
呉への対応
劉備は劉禅を皇太子と立てると、費禕と董允を太子舎人としました。
さらには、太子庶子へと昇進する事になります。
後に劉備は夷陵の戦いで陸遜に敗れ、223年に白帝城で崩御しました。
夷陵の戦い後に孫権が魏の曹丕の攻撃を恐れ、劉備と同盟を締結させようとしています。
この時に、劉備が費禕や宗瑋に、呉に対応させました。
しかし、最終的には鄧芝により蜀と呉の同盟が完全に復活する事になります。
諸葛亮に高く評価される
劉禅が蜀の皇帝に即位すると、費禕は黄門侍郎に任命されています。
諸葛亮が南征から帰還すると、蜀の臣下の者達は数十里先まで出向きました。
諸葛亮を出迎えた人々は多くの者が費禕よりも年上で官位も上位でしたが、諸葛亮は費禕を名指しで指名し自らの車に同乗させています。
費禕が諸葛亮に呼ばれた事で、当時の多くの者が費禕に対する評価を改めました。
呉への使者
孫権に認められる
それから間もなくして、諸葛亮は呉への使者として費禕を任命しました。
この時に費禕は昭信校尉に任命されています。
孫権は他国に使者に対し、からかったりする事が多々ありました。
孫権の癖の強い性格に対し馬良、鄧芝、伊籍などはお墨付きを貰いましたが、丁厷や陰化などは孫権を納得させる事が出来なかったわけです。
費禕は呉に行くと、群臣の諸葛恪や羊衜が切れ味がよい議論を吹きかけて、論破しようとしてきました。
ここで費禕は誠実な態度で丁寧に返答し、諸葛恪や羊衜は最後まで費禕をやり込める事が出来なかったわけです。
費禕別伝によると、この後に孫権は酒宴を開き特上の酒を注ぎ費禕に飲ませました。
孫権は費禕が酔ったのを確認すると、国事や要事について様々な意見を訪ね、難題を吹っ掛けています。
孫権としてみれば、酒好きの費禕を酔わせ何らかの落ち度や、国内の情報などを引き出したかったのでしょう。
しかし、費禕は酒に酔っても孫権の誘いには乗らず、飲酒を理由に回答を控え、後から質問をよく考えて箇条書きにして、孫権に伝えました。
費禕は酒に酔っても、失態をしなかったわけです。
孫権は費禕の態度を高く評価し、次の様に述べています。
※正史三国志 費禕伝より
孫権「貴方は天下の善徳の士だ。
必ずや蜀の股肱の臣となるであろう。
多分、ここに何度も来る事は出来なくなるに違いない」
孫権は費禕を高く評価し、蜀の中枢に入ると予言した事になります。
孫権の刀
孫権は費禕と誼を結ぼうと考えたのか、いつも手にしている宝刀を、費禕に贈りますが費禕は次の様に答えました。
※費禕別伝より
費禕「臣は不才の身です。恩寵を賜わる事は出来ません。
しかしながら刀は王命に従わない者を討伐し、暴虐を抑えるためのものでもあります。
大王様(孫権)が功業の樹立を為さり、共に漢室を推したてて下さるように願っております。
私は暗愚ではありますが、生涯に渡り東方の恩顧に背かない所存です」
孫権はこうした費禕の受けごたえを見事だと感じた事でしょう。
尚、ここで費禕は「東方の恩顧に背かない」と述べており、東方に兵を進めない事を指している様にも感じました。
それを考えると、既にこの時点で費禕は外征には反対だったとみる事も出来るはずです。
言葉に詰まる
費禕は蜀に帰還すると諸葛亮は侍中に任命しました。
諸葛亮は魏を打倒する為に、北伐を始め漢中に駐屯する事となります。
この時に諸葛亮は劉禅に願い出て、費禕を参軍としました。
諸葛亮としては呉の孫権と連動して北伐を成し遂げたい意思があり、費禕なら呉と上手くやってくれるだろうと考えたのでしょう。
正史三国志の董允伝に費禕の副官に董恢がおり、呉に向かった話があり、この時の話だった様に感じています。
この時に費禕は言葉に詰まってしまい董恢が変わりに受けごたえをしています。
董恢が見事な返答をした事で、孫権は機嫌をよくし大笑いしました。
費禕は先に呉に行った時の状態を見るに、即答するのが苦手な部分もあったのでしょう。
魏延と楊儀
230年に費禕は中護軍となり、後に司馬となります。
費禕は出世を続けたと言えるでしょう。
当時の蜀では軍師の魏延と長史の楊儀の対立が酷かったわけです。
魏延は蜀軍の武の柱であり、楊儀は補給で高い能力を発揮していました。
魏延と楊儀は常に対立し、魏延が楊儀に剣を突きつけ楊儀は涙を流すなど、二人は憎み合い水と油の関係となります。
費禕は魏延と楊儀が対立すると、いつも間に入り諫め論して別れさせたとあります。
費禕は魏延、楊儀の双方とコミュニケーションが取れる立ち位置にいたのでしょう。
こうした人間関係の調整は費禕が最も得意とした分野にも思えます。
諸葛亮の存命中に魏延と楊儀の対立が頂点に達しなかったのは、費禕がいた事も大きな要因と言えるでしょう。
諸葛亮も費禕の調整能力を高く評価したはずです。
魏延の最後
西暦234年の五丈原の戦いでは、諸葛亮が司馬懿と対峙している最中に没してしまいました。
諸葛亮は楊儀に撤退を指示して世を去っています。
しかし、楊儀と犬猿の仲で諸葛亮の事も臆病だと感じていた魏延が、撤退命令に従うのか微妙な部分もあったわけです。
ここで楊儀は費禕を魏延の元に派遣しました。
費禕は魏延と話をしますが、魏延が撤退する気がなく北伐を継続する意思がある事を知ります。
この時に魏延は漢中に帰還する軍と、この地に残り北伐を継続する軍で二つに分け、書類には費禕にもサインをさせています。
魏延は費禕がサインした書類を諸将に見せ北伐の継続をアピールしました。
費禕は魏延の姿を見て説得が不可能だと判断し「自分が楊儀を説得する」と嘘を述べ、魏延の陣を後にしました。
魏延は費禕の様子がおかしいと感じ、後を追わせますが費禕に追いつく事は出来なかったわけです。
費禕は魏延の様子を楊儀に報告すると、楊儀は魏延を置いて撤退に移り、怒った魏延は先回りして蜀の本隊に戦いを挑みました。
しかし、王平に一喝され兵が逃げてしまった事で戦いにならず、魏延は馬岱に討たれています。
費禕はこの後に後軍師に任命されました。
楊儀の最後
楊儀は帰還すると「自分こそが諸葛亮の後継者だ」と考えていたわけです。
諸葛亮は楊儀の能力は認めていましたが、性格に問題がある事も知っており、劉禅には蔣琬を推挙していました。
蔣琬が政務の中心となると楊儀は中軍師となりますが、閑職であり楊儀の不満が爆発する事になります。
費禕は楊儀とも良好な関係を築いていた事もあり、楊儀は費禕に対し不満をぶちまけました。
この時に楊儀は「魏に寝返っていたら~」などの話をした事もあり、費禕は楊儀の発言を上奏したわけです。
これにより楊儀は罷免され、配流されますが、それでも誹謗を繰り返した事で最後は自刃しました。
魏延と楊儀は犬猿の仲でしたが、彼らの最後は費禕と関係している事になります。
魏延と楊儀の最後を見ていると「費禕がライバルを抹殺した」とする見解もあります。
しかし、蜀漢を運営する上で魏延や楊儀の性格が障害になると判断し、費禕は上奏した様にも感じました。
大将軍・録尚書事
西暦238年に遼東の公孫淵が魏に反旗を翻すと、劉禅は蔣琬に魏を滅ぼすべく詔を下しています。
蔣琬は漢中に移り船で荊州から魏を攻撃する案を出します。
蔣琬が計画した蜀の東征ですが、蜀内部でも反対する者が続出しました。
蔣琬の東征計画に反対した者の中に費禕や姜維がおり、当時の蔣琬が病気がちだった事もあり、費禕が尚書令となり、後に大将軍・録尚書事となります。
大将軍・録尚書事になった時点で、費禕が蜀漢の中で最も尊貴な臣下となったわけです。
蔣琬は涪城に後退しました。
尚、蔣琬が失脚したのは費禕が原因とする説もあります。
費禕が蔣琬の東征計画で反対者が多く出た事で、費禕が反対派を上手くまとめて自分が大将軍・録尚書事にまでなった説です。
しかし、これらは確証があるわけではなく、費禕が政争を行ったのかも正確な所は分かりません。
ただし、費禕が西暦243年に大将軍・録尚書事となり、政治・軍事のトップに君臨した事だけは間違いないでしょう。
高い能力
費禕は蜀漢のトップとなりますが、軍事や国政で多忙を極めていました。
しかし、費禕は人並外れた理解力を持っており、記録を読む場合も暫く見つめただけで処理する事が出来たとあります。
費禕の情報処理能力は普通の人の数倍であり、さらに決して忘れる事もなかったと言います。
費禕は朝と夕に政務を行い、その間に賓客との応接があり、食事をしながら遊びや賭け事を楽しみました。
それでいて費禕は仕事を怠る事もなかったと伝わっています。
後に董允が費禕に代わり尚書令となりますが、董允が費禕の真似をしようとすると、十日で多くの仕事が停滞したとあります。
董允は自分と費禕の違いに嘆息し、次の様に述べました。
※費禕別伝より
董允「人間の才能や力量がこれほどまでにかけ離れているとは思いもしなかった。
私は1日中政務を行っても、まだ暇さえできない」
董允は費禕の能力の高さに驚いたわけです。
この逸話は費禕の有能さを物語っていると言えるでしょう。
費禕は器用な人間であり、何をするにも効率よくやる事が出来たのでしょう。
費禕はマルチタスクも得意だった事が分かるはずです。
魏との戦い
244年に魏の曹爽が大軍を率いて蜀に攻め込んで来ました。
費禕には節が与えられ、軍勢を率いて曹爽の軍を迎え撃つ事になります。
この時に蜀では兵士を招聘する為の文書や人馬の用意などで、混相とした状態であり、漸く軍を出撃させる準備が整います。
こうした中で来敏は費禕の挨拶にやってきて「囲碁をやろう」と述べました。
普通であれば来敏に対し「空気読め」で怒ってもよさそうなのに、費禕は来敏の囲碁の相手を引き受けています。
費禕と来敏は対局しますが、費禕は嫌がる素振りを一切見せずに、次の様に述べました。
来敏「先ほどの事は貴方を試しただけです。
この様な事が出来るのであれば、貴方は本当に適任者です。
賊を必ずや討伐する事が出来るでしょう」
来敏の予言は当たっており、費禕が援軍として現れると魏軍は兵を引きました。
功績により費禕は成郷侯に封じられる事になります。
費禕を見ていると董和や孫権など様々な人に試されているとも感じてきます。
蔣琬が州職を辞退した事で、費禕は再び益州刺史を兼任しました。
正史三国志には費禕の国政を担当した功績は、ほぼ蔣琬に匹敵したとあります。
劉禅からの信頼
246年に蔣琬が亡くなると、名実共に費禕が蜀漢の中心となり漢中に駐屯しました。
しかし、劉禅は蔣琬や費禕が漢中にいても、彼らを頼りとし褒美や刑罰を行う時は相談したとあります。
劉禅は蔣琬や費禕に高い信頼感を持っていた事が分かります。
さらに言えば、蔣琬や費禕が国政を行う立場となっても、劉禅を蔑ろにする事もなかったのでしょう。
劉禅は蔣琬や費禕を信頼し大権を与えました。
劉禅にしてみれば、蔣琬と費禕の判断力に委ねている部分が多かったとも言えます。
甲乙二論
殷基の通語に、司馬懿が曹爽を処刑した事について、費禕が甲乙二論を立てて是非を批評した話があります。
甲論には曹爽の兄弟は凡庸ではあったが、魏の曹叡により皇族として後を任されたとしています。
費禕は曹爽に対し国を任されたのに驕慢で、国家を乱そうとしたなど、かなり批判的に甲論で記載しました。
司馬懿に対しては、罪があった曹爽を咎めて討伐し、一朝にして滅ぼしたと述べています。
費禕は甲乙二論の甲論では司馬懿は奮い立ち、民衆の心に寄り添った行動をしたと讃えました。
それに対し、乙論の方では司馬懿が曹叡から自分一人に任せなかった事を遺恨に思ったとしても、曹爽と何の関係があるのか?と問うています。
費禕は乙論では司馬懿は曹爽の過失を探し、警戒していない事をいいことにつけ込んだに過ぎないと批判しました。
さらに費禕は司馬懿は曹芳の身柄の安全を確保しなかったと述べており「忠臣の態度とはいえない」とも述べています。
費禕は曹爽を大悪ではないとし、功臣である曹真の血統を断絶させ、何晏まで殺害するのは刑の妥当さを欠くと批判しています。
蜀漢の大将軍とする立場もあったでしょうが、乙論の方に費禕の気持が現れている様に感じました。
北伐
姜維はタカ派であり、費禕に対し北伐を行いたいと願い出る事になります。
しかし、費禕は次の様に述べて姜維を宥めています。
※漢晋春秋より
費禕「我々は丞相(諸葛亮)の能力に遠く及ばない。
丞相ですら中原の地を平定する事が出来なかったのに、我等が地を得る事が出来るだろうか。
まずは国家を保ち民をよく治め、謹んで社稷を守るのが肝要である。
功業の樹立は能力のある者が現れるのを待つべきだ。
僥倖を頼みとし一戦で勝敗を決めようとしてはならない。
もしも上手く行かなかった場合に、後悔しても遅いのだ」
費禕は北伐反対派であり、大規模な軍勢を整え魏に攻める事をしようとはしませんでした。
費禕の言っている事も一理あり、実際に費禕の死後に姜維が何度も北伐をし、魏の鄧艾に敗れるなど国力を大いに削いでいます。
ただし、元々魏と蜀では国力が圧倒的に差があり、時間が経てばたつほど国力の差となり、蜀が不利になるとする考えもあります。
それを考えると、早いうちに勝負をつけたかった姜維の北伐論も全く悪いとは言えないでしょう。
他にも、蜀漢は魏を打倒して漢王朝の復興を掲げて出来た国です。
蜀漢が北伐を行わないのは、建国の意義を棄てる事になる問題も存在します。
それでも、費禕は北伐を行おうとはしませんでした。
ただし、費禕は北伐に反対でしたが、姜維は腐らず功績を挙げ続けた事で、費禕も姜維を抑える事が難しくなっていきます。
西暦249年には姜維と魏の郭淮、陳泰らの間で麴城の戦いが勃発しますが、姜維は勝つ事が出来ず句安、李歆らは魏に降りました。
麴城の戦いは費禕が望んだ戦いでも無かった事でしょう。
それでも費禕は姜維に、大規模な北伐軍を編成させる事は無かったわけです。
251年には費禕は成都に一旦帰還しましたが、占い師が「都には宰相がいない」と述べた事で、漢寿に移りました。
252年に劉禅は費禕に幕府を開く事を許し、費禕は幕府を開く事になります。
費禕の最後
253年の正月に費禕は大宴会を開きました。
この時に魏の降将である郭循が同席していたわけです。
費禕は宴会を楽しみ酔いつぶれてしまいますが、郭循は費禕を刺殺しました。
これにより費禕は最後を迎えています。
費禕の最後に関しては「酔いつぶれて刺されるのでは話にならない」とする意見や「費禕の警護が甘すぎる」とする見解があります。
費禕が亡くなった事で、蜀は様相を変え陳祗と姜維による北伐の時代へと舵を切る事になります。
黄皓が政務に口を出す様になるのも、この頃からです。
尚、費禕は敬侯と諡され、子の費承が後継者となり黄門侍中になります。
費禕のもう一人の子である費恭は、公主を娶り、費禕の娘は劉璿の妃となっています。
因みに、費禕の死後に北伐が再開される様になった事もあり、姜維が郭循を操り費禕を暗殺したとする説もあります。
この辺りは確証があるわけではなく不明な部分が多いです。
費禕別伝に「費禕は出入りに車騎を従えなかった」とも記載があり、元来、人を信用し過ぎたり無防備な部分が多々あったようにも感じています。
費禕は多くの人と交わり、怨みを買う様な事もせず、油断していた部分もあるのでしょう。
費禕の評価
費禕の評価ですが、古来から二つに分かれています。
費禕は無謀な北伐を行わず、蜀を存続させた名宰相としての評価です。
費禕は北伐は行わず守りに徹しましたが、国内をよく治めたとも言えます。
その反面で費禕は政争に明け暮れ「権力欲が強かったのではないか?」とも考えられているわけです。
費禕は魏延や楊儀との最後とも関わっており、政敵を潰す為にやったのではないか?とも考えられます。
しかし、個人的には費禕は酒を好み多くの人と交わり、人脈を築いていったと感じました。
人間関係で言えば、抜群の調整力を持っていると言えるでしょう。
劉備は家族や部下、時には関羽まで置き去りとし逃亡はしていますが、ギリギリまで仁義の道を進んだ様に思います。
それと同じように、費禕も限界点に達するまでは、ちゃんと人と接しましたが、限界点を超えて国家の害になると考えれば、見切りをつけた部分もあると感じています。
費禕は大規模な北伐を起こさず、地味な存在でもあり評価は難しい部分もあったのでしょう。