室町時代

細川顕氏は栄光と挫折を味わうも時勢を見誤らなかった

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宮下悠史

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名前細川顕氏
生没年生年不明ー1352年
時代南北朝時代
一族父:細川頼貞 兄弟:直俊、定禅皇海
子:政氏、繁氏業氏(養子)
コメント細川奥州家の祖

細川顕氏は南北朝時代に活躍した人物で、足利一門の武将でもあります。

足利尊氏は建武政権から離脱するも、京都の戦いで敗れ九州に落ち延びますが、この時に細川顕氏や細川和氏など細川氏の者達を四国に派遣しました。

細川顕氏は各地を転戦し功績を挙げ、一時は従四位にまでなっており大出世を果たしたと言えるでしょう。

しかし、楠木正行との教国寺での戦いに敗れ没落しました。

それでも、観応の擾乱では尊氏派と直義派を行き来しますが、時勢を見誤らずに対処しています。

正平一統が破棄されると、後村上天皇が籠城する石清水八幡宮を攻撃し陥落させますが、それから間もない時期に亡くなっています。

尚、細川氏と言えば細川清氏や細川頼之が有名ですが、細川顕氏は清氏や頼之とは別系統で、細川奥州家に属したと言えます。

細川顕氏は松井優征先生の漫画・逃げ上手の若君にも登場しており、知名度は上がっているはずです。

細川顕氏の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

建武政権での細川顕氏

細川顕氏が鎌倉幕府滅亡の戦いで、どの様な功績を挙げたのかはイマイチ分かっていません。

しかし、後醍醐天皇による建武の新政が始まると、細川顕氏は兵部少輔に任じられており、足利尊氏の六波羅探題攻撃に従軍したと考えられています。

1335年に北条時行による中先代の乱が勃発しますが、足利直義と共に細川顕氏も戦いに敗れて敗走した記録も残っています。

ただし、中先代の乱で父親の細川頼貞が自害したのは事実の様です。

四国へ入る

中先代の乱が終わると、足利尊氏は鎌倉で建武政権から離脱しました。

後醍醐天皇は新田義貞を鎌倉討伐に向かわせますが、足利尊氏は箱根竹ノ下の戦いで勝利し、そのまま京都に進撃しました。

足利尊氏は北畠顕家らに敗れ京都を追われ九州に向かいますが、細川顕氏、定禅皇海、直俊及び、細川和氏頼春ら細川氏の者を四国に派遣しています。

ここから本格的な細川氏による四国支配が始まるわけです。

細川氏の中でも細川顕氏と細川和氏は重要な任務を任されており、連署奉書による恩賞宛行を行った事が分かっています。

細川顕氏ら細川氏の者達の役目は、とにかく四国勢を味方に付ける事だったのでしょう。

各地を転戦

足利尊氏は九州では少弐頼尚の助けもあり、短期間で復活すると直ぐに上洛戦争を起こしました。

この時に細川顕氏及び細川氏の者達は、四国勢を率いて従軍しています。

細川顕氏は摂津や和泉の国人も指揮しており、山城国の九条、鳥羽、桂、竹田などで後醍醐天皇の軍と戦っています。

細川顕氏は足利尊氏と共に、後醍醐天皇を比叡山にまで追い詰めました。

さらに、摂津の天王寺へ転戦し、河内や和泉などでも戦闘を行っています。

河内国では野中寺、藤井寺で敵方と戦いますが、こうした戦いの中で弟の細川直俊が世を去りました。

この時期の細川顕氏は河内国八尾、和泉国横山などにも進撃し、多くの戦いを経験しました。

(画像:ウィキペディアより)

これらの活躍が認められ讃岐や土佐の守護にもなっています。

北畠顕家との戦い

暦応元年(1338年)に細川顕氏は天王寺で、北畠顕家の軍と戦い敗れました。

しかし、室町幕府では高師直高師泰細川頼春らを援軍とし、石津の戦いで北畠顕家を破りました。

北畠顕家は南部師行らと自害し世を去る事になります。

足利尊氏の母親である上杉清子は高師直と細川顕氏の戦いぶりを評価し称賛した話があります。

こうした事もあり、細川顕氏は従五位に叙されました。

細川顕氏の大和出陣

1340年になると細川顕氏は侍所頭人となりました。

この頃の細川顕氏は京都におり、濫妨を取り締まるなどをしています。

この時期に大和の南朝勢力の開住西阿の攻撃を命じられています。

興福寺が幕府に救援要請をした事で、細川顕氏の出陣が決まりました。

しかし、細川顕氏は八幡に留まり、中々動こうとしなかった事で、興福寺が怒り神木を入洛させ、光厳上皇の六条殿に投げ込みました。

こうした事もあり、細川顕氏は進軍し西阿を破り、神木は春日大社に再び戻る事になります。

足利尊氏直義と天龍寺造営の綱引、禄引にも参加し、後陣を任されています。

1344年には幕府の引付衆となりました。

多少の失敗はあっても、幕府では細川顕氏への信頼は揺るがなかったのでしょう。

昇進

細川顕氏は和泉・河内・讃岐の守護を務めています。

さらに、兵部少輔から陸奥守に昇進しており、細川奥州家の祖を細川顕氏とする記録も残っています。

1346年には足利尊氏直義が山城国安国寺詣に行った際に、細川顕氏の邸宅に寄った話があり、尊氏や直義との関係も良好だったのでしょう。

侍所頭人に再任されたり、貞和三年(1347年)には従四位になっており、出世を重ねました。

足利一門の中でも最上位の家格と言えば吉良氏と斯波氏ですが、両家にも匹敵するほどの位階にまで細川顕氏は登ったわけです。

細川顕氏の挫折

1347年になると、楠木正行が動き出しました。

室町幕府では細川顕氏、畠山国清山名時氏らに対処させています。

ここで藤井寺合戦住吉合戦が行われていますが、両方とも幕府軍の完敗に終わりました。

楠木正行に敗れた事で、細川顕氏は河内及び和泉の守護を解任されただけではなく、侍所頭人も解任されたと考えられています。

足利尊氏高師直高師泰に大軍を預け、楠木正行の討伐に向かわせました。

高師直の兄弟は四條畷の戦いで、楠木正行を討ち取り、南朝の本拠地である吉野を焼き払うなど大戦果を挙げています。

細川顕氏の勢力は一時的に没落する事になりました。

細川顕氏と足利直義

足利直義は尊氏の許可を取り、高師直を解任しますが、高師直の御所巻により失脚しました。

足利直義は政務を引退し、足利基氏が鎌倉に向かい、足利義詮が京都に入る事になります。

三条坊門邸を出る事になった足利直義ですが、錦小路堀川の細川顕氏邸に移る事になりました。

足利直義は政務から離れましたが、細川顕氏邸に移った後に、足利尊氏細川頼春、細川顕氏らと共に二条為世の十三回忌和歌に参加した記録があります。

足利直義は細川顕氏の邸宅に移る辺りを見ると、細川顕氏をかなり信頼していたのでしょう。

直義に味方する

足利直冬が九州で勢力を拡大させていました。

これに対応する為に、足利尊氏高師直は九州に出陣しますが、足利直義が京都を密かに抜け出しました。

足利直義は高師直、高師泰の兄弟の打倒を叫び軍勢催促を行っています。

この時に、細川顕氏は播磨にいましたが、尊氏の軍を離脱し分国である讃岐に向かいました。

当時の人は細川顕氏が足利尊氏から離れるとは思っておらず、驚いたという話しも伝わっています。

打出浜の戦い

足利直義は河内の都智城で、細川顕氏と相談して進退を相談したとの噂も拡がりましたが、実際の細川顕氏は讃岐にいました。

細川顕氏は直義派として行動し、讃岐で上洛の為の準備をするだけではなく、細川皇海の旧領である土佐に進出しています。

さらに、細川顕氏は播磨国書写山に籠る足利尊氏の軍勢を攻撃しました。

打出浜の戦いでは足利直義が完勝し和議が成立しましたが、高師直や高師泰は世を去り尊氏は京都に入る事になります。

この後に、細川顕氏が足利尊氏に挨拶に行きましたが、謁見は断られた話があります。

細川顕氏は丹波に向かい足利義詮を京都に迎えるなどしました。

この辺りは、直義からの顕氏への信頼の厚さが分かる話でもあります。

復帰

足利直義に味方した事で、細川顕氏は正五位下に叙され、引付頭人にもなっています。

さらに、息子の細川政氏や細川繁氏も従五位下に叙されました。

守護職も土佐を拝領する事になります。

楠木正行に敗れ没落した細川顕氏も復活の軌道に乗ったと言えるでしょう。

尚、足利直義は相変わらず細川顕氏邸にいましたが、途中から山名時氏邸に移っています。

しかし、足利直義は足利義詮と上手くいかず、南朝の北畠親房との交渉も不調であり、幕府での居場所を無くして行き政務を退こうとしますが、足利尊氏が止めました。

尊氏派に鞍替え

近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐が南朝に鞍替えする事件が起きました。

足利尊氏義詮は討伐の為に自派閥の諸将を引き連れ京都を出ますが、足利直義は京都にいる自分を挟み撃ちにするのではないかと疑いました。

足利直義は身の危険を感じ、斯波高経、桃井直常、上杉朝定、山名時氏らと共に京都を脱出し、北陸に移りました。

細川顕氏は足利直義には従わず、京都に残る事になります。

足利義詮は細川顕氏を京都守護に任命しました。

この時点で細川顕氏は尊氏派に鞍替えした事になるでしょう。

それと同時に、細川顕氏は観応の擾乱において戦局を見誤る事が無かったと言えます。

尊氏と直義の和平交渉

足利尊氏は直義との戦いを望んではおらず、細川顕氏を使者として派遣しました。

細川顕氏は直義に京都に戻ってくる様に伝えますが、直義は従いませんでした。

足利尊氏は南朝への降伏を視野に入れ交渉を始め、足利直義を討つために近江に出陣しています。

こうした中でも和平交渉が進み、足利尊氏と直義が近江の興福寺で会見にまで至りますが、和議は纏まらなかったわけです。

和睦の斡旋を行った畠山国清と細川顕氏は責任を取り、出家しようとしますが、足利尊氏が止めました。

足利直義は関東に移り、足利尊氏は東征を行いますが、細川顕氏は足利義詮と共に京都に残る事になります。

足利尊氏は南朝に降伏した上で、東国を目指しており、これにより正平一統が成されました。

細川顕氏は南朝から従四位下に叙せられています。

さらに、引付頭人となり足利義詮を京都で補佐する事になりました。

正平一統の破棄

足利尊氏は薩埵山の戦いで勝利し足利直義を降伏させ、鎌倉に入りました。

しかし、突如として南朝の軍が正平一統を破棄し、京都に攻め込んで来たわけです。

細川顕氏や細川繁氏は南朝の軍を相手に防戦しますが、戦況は不利であり、足利義詮は皇族も置き去りにし近江に避難しました。

光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、直仁親王を京都に残しての逃亡でしたが、これに細川顕氏も従う事になります。

この戦いで、細川頼春が戦死しています。

関東では南朝の新田義興北条時行と武蔵野合戦が繰り広げられますが、足利尊氏が勝利しました。

こうした中で足利義詮は細川顕氏や佐々木道誉と共に京都を奪還しています。

さらに、後村上天皇が籠城する石清水八幡宮を包囲しました。

この戦いで息子の細川政氏が戦死しますが、後村上天皇を撤退に追い込んでいます。

この時期に細川顕氏は讃岐、土佐だけではなく和泉守護にもなったと考えられています。

細川顕氏の最後

南朝の軍を破ってから2カ月ほどすると、細川顕氏は体調を崩し突如として出家しました。

この翌日に、細川顕氏は病没したと伝わっています。

石清水八幡宮攻撃の総大将となっており、山上や寺社を焼き払った事への神罰が下ったともされています。

細川顕氏が亡くなると、細川繁氏が後継者となりました。

細川顕氏の動画

細川顕氏のゆっくり解説動画です。

この記事及び動画は南北朝武将列伝北朝編(戎光祥出版)及び、足利一門守護発展史の研究(吉川弘文館)をベースに作成してあります。

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