北条時行は、少年ジャンプで連載された「逃げ上手の若君」で有名になった人物です。
「逃げ上手の若君」を書いたのは、松井優征先生となります。
北条時行は、鎌倉幕府が滅亡した時は、まだ幼かったわけですが、信濃の諏訪に身を潜め中先代の乱を引き起こしています。
その後は、南朝方の武将として各地を転戦し、活躍した武将でもあります。
今回は「逃げ上手の若君」でも話題になった、北条時行の生涯を解説します。
尚、北条時行の生涯を見ると、足利尊氏を敵としてみなしている事が分かるはずです。
鎌倉幕府の滅亡
北条時行は幼き頃に、鎌倉幕府の滅亡を体験しています。
過去には、鎌倉幕府の滅亡原因は、元寇により御恩と奉公の体制が崩壊したとか、鎌倉幕府が御家人に対して十分な恩賞が支払われなかったのが原因とされてきました。
しかし、近年の研究では、鎌倉幕府の末期に北条氏は、過去最高の求心力を持っていた話しもあり、何が理由で鎌倉幕府は滅びたのか分からない状態でもあります。
ただし、後醍醐天皇が「正中の変」と「元弘の乱」で幕府に対して反旗を翻し、足利尊氏が後醍醐方に寝返り六波羅探題を滅ぼし、新田義貞が鎌倉を陥落させた事で、鎌倉幕府は滅亡しています。
鎌倉幕府の最後の戦いでは、鎌倉の東勝寺で自害した北条氏の一族は873人、鎌倉で犠牲になった人々は8000人にも上るとされています。
この戦いで北条時行の父親である北条高時は亡くなり、多くの家臣団が亡くなった事で、10才にも満たぬ北条時行には衝撃があった事でしょう。
兄の死
北条時行と異母兄の北条邦時は、家臣団に守られて鎌倉から逃亡する事になります。
北条時行は五大院宗繁に守られて伊豆に逃げるはずだったのですが、五大院宗繁が新田義貞に北条邦時の情報を密告した為に、北条邦時は捕らえられて処刑される事になります。
この時の北条邦時の姿を見て、涙を流さなかった者はいなかった話もあります。
世間が北条邦時に対して同情的だった為に、新田義貞は五大院宗繁を不忠者として処刑しようとしますが、五大院宗繁は事前に察知して逃亡しています。
尚、北条高時の嫡子である北条邦時が亡くなった事で、異母弟の北条時行が北条氏の正統なる後継者となったわけです。
諏訪に逃げる
北条時行は、諏訪に逃げる事になります。
鎌倉幕府の滅亡時に、諏訪盛高が北条時行を連れて諏訪に逃げたわけです。
諏訪がある信濃は北条氏が代々守護を務めており、北条氏と関係が深い地でした。
諏訪頼重や諏訪盛高なども、北条時行の叔父である北条泰家から、北条時行の事を頼まれていた話もあります。
北条時行は諏訪に逃れ、北条泰家は北陸に逃れる事になりました。
鎌倉幕府は1333年に滅亡しましたが、北条時行は生き残る事が出来たわけです。
北条時行は諏訪で匿われる事になります。
諏訪家には、精強な諏訪神党がおり、諏訪神党は代々に渡り諏訪大明神を信仰する一族だったと伝わっています。
諏訪頼重の嫡男である諏訪時継が諏訪の大祝を務め、諏訪家の最高責任者である諏訪頼重は北条時行を暖かく迎え入れた話しもあります。
北条時行は少年時代を諏訪で暮らし、諏訪頼重が北条時行の父親代わりとなったのでしょう。
建武政権の混乱
1334年に後醍醐天皇が中心となり、建武の新政が始まる事になります。
一般的には建武の新政では後醍醐天皇の朝令暮改が多発するなど、各地の武士たちが不満を持つ様になったとされています。
こうした中で、後醍醐天皇や足利尊氏に不満を持つ武士たちが反旗を翻し、奥州北部、北九州、南関東、日向、紀伊、長門、伊予などで反乱が起きます。
これらの反乱は鎌倉幕府が滅んでしまった事で、不利益を被った武士たちの反乱とも言われています。
紀伊で起きた建武政権に対する反乱は京都に近かった事もあり、京都を震撼させた話もあるほどです。
京都でも1335年に北条高安が毘沙門堂に立て籠った事件が起きています。
北条高安は楠木正成により鎮圧されたとも伝わっています。
建武政権に対して反乱が起きる場合は、北条氏の旧領や守護を務めていた地域が多く、北条家の一族が反乱の首謀者になると規模が大きくなる話があります。
それを考えると、北条家の正統なる後継者である北条時行が関与した中先代の乱の規模が大きくなったのは、当然の成り行きとなるのでしょう。
尚、北条時行を匿った諏訪頼重は、信濃守護に任命された小笠原貞宗と仲が悪く、切り札として北条時行を匿っていたとする説もあります。
後醍醐政権の方でも、後醍醐天皇の皇子である護良親王と足利尊氏、直義らが対立し、護良親王が征夷大将軍を解任され、鎌倉に流される事になります。
因みに、鎌倉の守備に足利尊氏の弟である足利直義が任命されています。
中先代の乱
1335年に信濃で中先代の乱と呼ばれる大規模な反乱が起きています。
この反乱の首謀者が北条時行です。
中先代の乱の名前の由来
中先代の乱ですが、鎌倉幕府があった北条高時以前を「先代」と呼び、足利氏の治世を「後代」もしくは、「当代」と呼びます
中先代の乱は、「先代」と「後代」の中間にあった事から、「中先代」と呼ばれ、中先代に起きた反乱なので中先代の乱と言われる様になった話があります。
西園寺公宗の反乱
関東申次であった西園寺公宗は、持明院統を擁立し建武政権の転覆を計る事になります。
西園寺公宗の計画では、信濃で北条時行が挙兵し、北陸で北条泰家が蜂起し、連動して西園寺公宗も反旗を翻す予定だったとされています。
しかし、西園寺公宗の計画は、弟である西園寺公重の密告があり、西園寺公宗は捕縛される事になってしまいます。
首謀者であった西園寺公宗は捕まってしまいますが、計画は継続され信濃で北条時行が挙兵する事になります。
ただし、この時の北条時行は子供であり、実際に指揮を執ったのは諏訪頼重だったと考えられています。
北条時行の挙兵
北条時行の挙兵が決まると諏訪頼重は息子の諏訪時継と共に従軍する事になります。
諏訪の大祝を務めていた諏訪時継は、大祝をしている間は諏訪から出られないルールがあり、僅か7才の息子である諏訪頼継に大祝の位を譲り、北条時行の軍に従軍する事になったわけです。
北条時行も足利尊氏や新田義貞と戦う為の味方を増やす為に、尾藤氏、平野氏、八木氏らに書状を送っています。
この様にして、北条時行は1335年に挙兵し、中先代の乱が勃発する事になったわけです。
後醍醐天皇が守りを固める
北条時行は挙兵しますが、首謀者である西園寺公宗が捕縛された為に、後醍醐天皇に計画がバレてしまいます。
後醍醐天皇は京都が危ないと判断し、守りを固める事になります。
後醍醐天皇は西園寺公宗の計画では、北陸と信濃から京都を制圧する計画だと分かり、北条時行を抑え込む為に尾張に兵を配置し京都を守ろうとしました。
北条時行が鎌倉に進撃
北条時行は諏訪頼重らから後醍醐天皇が尾張に兵を配置し、守りを既に固めている事を知ります。
北条時行ら諏訪の首脳部は、京都への進撃を諦め、足利直義が守る鎌倉に進撃する事にしました。
この時に鎌倉は守備が手薄になっていた話があり、鎌倉であれば敵の虚を突く事が出来ると判断したのでしょう。
北条時行にとっても鎌倉の奪還は悲願であり、鎌倉幕府の再興にも繋がる事から重要な戦いとなったはずです。
北条時行の快進撃
北条時行は信濃を出ると、上野に入り、武蔵国に行き鎌倉を目指す事になります。
後醍醐天皇の方でも、北条時行の軍を迎撃する態勢を取ったわけです。
この時の北条時行の軍は強く、女景原で岩松経家、渋川義季を自害に追い込み、小手指原では今川範満を討ち取り、府中では小山秀朝を自害に追い込んでいます。
朝廷軍の兵士がどれ位いたのかは不明ですが、この時の北条時行の軍は破竹の勢いであり、連戦連勝でした。
鎌倉を奪還
北条時行は鎌倉に軍を進めると、鎌倉を守備する足利直義が出陣し、井出沢で戦う事になります。
この時の北条軍の主力を成す、諏訪神党の勢いが強かったのか、北条時行の軍は足利直義の軍を破る事になります。
戦いに敗れた足利直義は、鎌倉を守り切る事が出来ないと判断し、西に向かって逃亡しました。
これにより、北条時行は念願の鎌倉を奪還する事になります。
北条時行にとってみれば、生まれ故郷でもある鎌倉に帰って来れた事で、感慨深いものがあったように感じます。
護良親王の死
北条時行や諏訪頼重は、足利直義を破った時に、鎌倉に幽閉されていた後醍醐天皇の皇子で、先の征夷大将軍である護良親王を救い出すプランもあったはずです。
護良親王は、後醍醐天皇や足利尊氏の事をよく思っていない事は確実であり、北条時行らが救出すれば、自分達の正統性をアピールする旗印にもなった事でしょう。
護良親王が再び征夷大将軍になり、北条時行が執権になれば、鎌倉幕府を再興する事にもなります。
しかし、戦いに敗れた足利直義は、護良親王を殺害した上で、鎌倉を放棄しています。
足利直義としては、井出沢の戦いには敗れたが、タダでは負けなかった事になるはずです。
足利尊氏が出陣
足利直義が戦いに敗れ、北条時行に鎌倉が奪われた話を聞くと、足利尊氏は自ら兵を率いて鎌倉に向かおうとします。
足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ようとしますが、足利尊氏に幕府を開かれる事を恐れた後醍醐天皇は許可しませんでした。
この時に、足利尊氏は直義が窮地に追い込まれていると判断し、後醍醐天皇の許可を得ずに、配下の武士たちを率いて鎌倉に向かう事になります。
後醍醐天皇は足利尊氏の行動に慌てて、征東将軍に任命した話があります。
これにより、北条時行と足利尊氏の中先代の乱での戦いが、火ぶたを切る事になったわけです。
足利尊氏に敗れる
足利尊氏は東海道を進撃し、鎌倉を目指す事になります。
北条時行の軍勢も迎撃態勢を取りますが、台風が鎌倉を直撃し、鎌倉大仏殿が倒壊した事で、兵士500人が命を落とす結果となっています。
北条時行の軍は連戦連勝で勢いに乗っていましたが、不吉な事態となり士気も下がってしまったのでしょう。
しかし、足利尊氏が鎌倉に進撃している以上は迎撃しないわけにも行かず、足利尊氏と戦う事になります。
足利尊氏は戦巧者でもあり、北条時行の軍を大いに破る事になります。
戦いに敗れた北条時行は、鎌倉を退去するしかありませんでした。
この時の北条時行は、運が味方しなかったとも言えます。
諏訪頼重の最後
北条時行は鎌倉から退去しようとしますが、諏訪頼重は諏訪の地に帰ろうとはしませんでした。
諏訪頼重が戦いに敗れた事で、諏訪の地は別の者の領地になる事は確実であり、大祝の地位も他者が就任する事が確実だったからです。
諏訪頼重は足利尊氏との戦いでは、今川頼国を討ち取るなどの活躍もしていますが、戦いに敗れた責任を感じていたのでしょう。
諏訪頼重は自害しますが、この時に自分の顔を削いで自害したとも伝わっています。
顔を削ぐ事で、北条時行が自害したと思わせる狙いがあったとされています。
尚、諏訪頼重と子の諏訪時継は自害しますが、大祝を務めていた諏訪頼継は身を隠しています。
そして、諏訪の大祝には建武政権から任命された、藤沢政頼が就任する事になったわけです。
復習を誓う
北条時行は船で伊豆に逃げ、北条家の旧臣たちが伊豆で北条時行を匿ったと考えられています。
北条時行は諏訪頼重が亡くなった事で、衝撃を受けて生涯の敵として、足利尊氏を憎んだ話もあるわけです。
鎌倉幕府を滅ぼし実の親である北条高時を討った後醍醐天皇や新田義貞よりも、育ての親である諏訪頼重を討った足利尊氏を敵とみなした事になります。
北条時行は生涯を掛けて、足利尊氏と戦う事になりました。
中先代の乱の結果
諏訪頼重が亡くなり北条時行が伊豆に逃亡した事で中先代の乱は集結します。
中先代の乱は終結しますが、足利尊氏は京都には戻らず、弟の直義が武士たちに勝手に恩賞を与えていきます。
中先代の乱が終わってみれば、足利尊氏と直義が鎌倉で独立勢力となり、後醍醐天皇とは別の政権を打ち立てる事になります。
尚、後醍醐天皇は恩賞を与える権利は、朝廷にあると考えており、足利尊氏を朝敵扱いしました。
後醍醐天皇に朝敵にされた足利尊氏はショックを受けて、引き籠ってしまった話しもある程です。
大夫四郎の鎌倉進撃
後醍醐天皇は新田義貞を鎌倉に派遣し、足利尊氏と直義を討とうとしますが、足利尊氏が返り討ちにしています。
足利尊氏、直義の兄弟は京都に進撃する事になります。
この時に、大夫四郎なる人物が挙兵し、足利尊氏、直義不在の鎌倉に攻撃を仕掛けた話があります。
しかし、尊氏に鎌倉の守備を任されていた、斯波家長に撃退されています。
大夫四郎が北条時行の叔父である北条泰家ではないかとする説もある様です。
尚、その後の大夫四郎の行方は分かってはいません。
南北朝時代の始り
京都に進撃した足利尊氏ですが、近畿での戦いは新田義貞、北畠顕家、楠木正成らの後醍醐帝三傑の活躍により敗れています。
足利尊氏は九州に落ち延びますが、圧倒的な戦力で復活し、湊川の戦いでは新田義貞と楠木正成を強大なる兵力を使い破る事になります。
湊川の戦いでは、漢の高祖劉邦の軍師である張良や陳平に喩えられる楠木正成が討死しました。
足利尊氏は京都に進撃し、後醍醐天皇を幽閉し光厳天皇を即位させたわけです。
後醍醐天皇は幽閉先の花山院を脱出し、吉野に南朝を開く事になります。
これにより南北朝時代が始まる事になったわけです。
北条時行が南朝の武将となる
1337年頃に、北条時行が後醍醐天皇に勅免を求めた話があります。
後醍醐天皇は北条時行が勅免を求めた事に対し、困惑したのではないかと考えられています。
後醍醐天皇の挙兵が鎌倉幕府を滅ぼし、北条時行の父親である北条高時を自刃させる結果となっていたからです。
しかし、北条時行としては、後醍醐天皇も足利尊氏に裏切られているわけであり、共通の敵として足利尊氏がいると考えたのでしょう。
後醍醐天皇は味方が欲しかった事もあり、北条時行を正式に南朝の武将として認める事になります。
これにより北条時行は南朝の武将として、各地を転戦する事になるわけです。
北畠顕家の軍勢に加わる
後醍醐天皇の要請により、東北にいた陸奥将軍府の北畠顕家が上洛する事になります。
北畠顕家は関東で北朝の斯波家長と決戦を挑む事になります。
この時に、北畠顕家は北条時行に書状を送り、味方になる様に要請しています。
北条時行は既に南朝の武将となっており、北畠顕家に味方する事を快諾したわけです。
この時の北畠顕家と北条時行の戦いは用意周到に行っています。
北条時行は密かに挙兵の準備を始め、斯波家長は北条時行の動きに気が付きませんでした。
北畠顕家と斯波家長の軍勢は利根川で戦う事になります。
利根川の戦い
利根川の戦いでは、北畠顕家と斯波家長が一進一退の攻防となりますが、北畠軍の南部師行が大きく迂回し、幕府軍の左翼を急襲しました。
南部師行の動きに対しては、斯波家長は冷静に対処する事になります。
しかし、北畠顕家が狼煙を上げると、北条時行の軍勢が突如、斯波家長の軍の背後に現れ、幕府軍を強襲する事になります。
北条時行の軍が背後から幕府軍を猛攻した事で、斯波家長は挟み撃ちを食らう事になります。
これにより斯波家長は戦線を維持する事が出来ずに、利根川の戦いは朝廷軍の勝利となったわけです。
2度目の鎌倉奪還
北畠顕家が斯波家長を破ると、北条時行は鎌倉に入る事になります。
これが2度目の鎌倉奪還となります。
北畠顕家の軍には、新田義貞の子である新田義興もいたわけです。
2度目の鎌倉奪還では、鎌倉幕府を滅ぼした男の息子と、滅ぼされた男の子が出会う事になります。
しかし、新田義興の敵も足利尊氏であり、北条時行と新田義興は共闘する事になります。
近年の研究では、新田義貞の鎌倉攻めも足利尊氏が計画していた話もあり、北条時行は鎌倉を陥落させた新田義貞も恨んではいなかったのではないか?と考えられています。
後醍醐天皇の崩御
北条時行は北畠顕家の軍に加わり上洛しますが、石津の戦いで北朝の高師直に敗れ、北畠顕家は討たれてしまいます。
足利尊氏の調略により、瀬戸内水軍を率いる土井、得能が幕府軍に味方した為です。
ただし、この時に北条時行は無事に逃げており助かっています。
この辺りが北条時行が「逃げ上手」と言われる所以なのでしょう。
近畿では北朝の幕府に多くの武士が味方した事で、南朝は圧倒的に不利な状況となってしまいます。
後醍醐天皇は起死回生の一手として、南朝の大船団を組織し、北畠親房や北条時行、懐良親王などを各地に派遣する事になります。
しかし、台風で南朝の大船団が壊滅した事で、後醍醐天皇も遂に消沈してしまったのか、1339年に崩御する事になったわけです。
後醍醐天皇の後継者として後村上天皇が即位しますが、南朝は圧倒的な不利な状況に置かれていました。
大徳王子城の戦い
南朝の大船団が壊滅した時に、北条時行は、どこに漂着したのかは分かっていません。
しかし、後醍醐天皇が崩御した翌年にあたる、1340年に信濃の伊那にある、大徳王子城で蜂起した話があります。
この頃になると、諏訪頼重の孫にあたる諏訪頼継が諏訪の大祝に復帰し、北条時行を支援していた話があります。
この時に信濃で北条時行を支援したのは、諏訪氏だけであり、北条時行の権威は著しく低下していたとも考えられています。
大徳王子城の戦いでは、諏訪頼継は12才にも関わらず出陣し、戦いで負傷するなど奮戦した記録があります。
ただし、多勢に無勢だったようで、大徳王子城は落城してしまったわけです。
しかし、北条時行は無事に逃げおおせており、ここでもしぶとさを見せています。
尚、大徳王子城が落城した事で、諏訪頼継は諏訪に引き返しています。
観応の擾乱と足利尊氏の南朝への降伏
南朝が弱体化した事で、比較的平和な時代が続く事になります。
しかし、幕府内で足利直義と高師直が対立した事で、観応の擾乱が勃発する事になります。
観応の擾乱で足利直義は高師直を殺害しますが、今度は足利尊氏と直義が対立する事になります。
足利直義は自分を支持してくれている武士らと共に、鎌倉に入る事になったわけです。
鎌倉にいた尊氏の子である足利基氏は直義に鎌倉を譲ったとも伝わっています。
足利尊氏は直義の討伐に向かいますが、この時に足利義詮の交渉により、幕府が南朝に降伏する事になります。
幕府の南朝への降伏は、足利尊氏も北条時行と同じ南朝の武将になった事を意味します。
これだと、北条時行は足利尊氏を討つ大義名分を失ってしまうわけであり、北条時行にとってみれば複雑な気分だったはずです。
観応の擾乱は1352年に足利直義が亡くなる事で終わりますが、この間に北条時行が何をしていたのかは分かりません。
信濃で北条時行が挙兵してから、10年以上も行方が分からない状態です。
後に北条時行が姿を現した時に、世間の人々は驚いたとする話があります。
足利尊氏との戦い
足利尊氏と北条時行の最終決戦が行われる事になります。
南朝の京都奪還
足利尊氏は足利直義を破りますが、関東が乱れてしまった為に、関東の平定を優先させる事にします。
南朝の後村上天皇や首脳部は、足利尊氏の降伏は一時的なものであり、危機が去れば裏切ると考えていました。
南朝の後村上天皇の軍は、突如、京都を攻撃し、京都を守る足利義詮を駆逐しています。
この時に、足利義詮は北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光天皇や直仁親王を置き去りにしてしまい、南朝に北朝の皇族を奪われる失態を犯しています。
足利義詮は京都を奪還しますが、既に北朝はもぬけの殻でした。
幕府は北朝の再建が急務となり、奇策を使って佐々木道誉が後光厳天皇を即位させたわけです。
足利尊氏に勝利する
ここで新田義興、北条時行、旧直義派の上杉憲顕ら尊氏を仇とする者たちが集結しました。
関東にいた足利尊氏は関東平定に乗り出す事になります。
この時に新田義興と北条時行で共闘し、小手指原で足利尊氏と戦う事になります。
小手指原の戦いが始まると、最初は一進一退の攻防だったわけです。
しかし、新田義興や北条時行は足利尊氏軍の饗庭命鶴丸の前にいた部隊を後ろに下げ、饗庭命鶴丸が前に出過ぎた所を攻撃し敗走させています。
饗庭命鶴丸の敗走が幕府軍の陣に穴を開けてしまい、小手先原の戦いは新田義興や北条時行ら南朝側の勝利となっています。
3度目の鎌倉奪還
足利尊氏を破った後に、新田義興や北条時行は鎌倉を急襲し奪還する事になります。
北条時行にとってみれば、3度目の鎌倉奪還になるはずです。
しかし、足利尊氏は態勢を立て直すと、各地で南朝に味方した軍を破る事になります。
こうした中で、北条時行や新田義興は鎌倉を出て、相模三浦にいた、石塔義基を破るなどの活躍をした事が分かっています。
ただし、関東での戦いの大半は足利尊氏が勝利する事になり、鎌倉も短期間で奪い返されています。
いつの時点かは分かりませんが、新田義興と北条時行も別行動を取った様です。
北条時行の最後
足利尊氏は関東を平定すると、大規模な南朝の残党狩りを行っています。
北条時行は、足利尊氏の命を狙い続けた事で、尊氏を恐怖させた事もあり、必ず捕えておきたい相手だったはずです。
足利尊氏は北条時行が死ななければ、安心して寝てはいられないと考えたのかも知れません。
北条時行の最後は、1353年に鎌倉の龍口で配下の長崎駿河四郎、工藤次郎と共に処刑された話があります。
この話が史実であれば、北条時行は足利尊氏の落ち武者狩りにあい命を落とした事になるでしょう。
北条時行の亡くなった日の二日後が、鎌倉幕府が滅亡してから丁度20年に当たる年だったとも言われています。
それを考えると、北条時行は20年間も足利尊氏に対して、戦い続けた事になります。
北条時行が鎌倉幕府が滅亡してから20年も戦い続ける事が出来たのは、北条氏の得宗被官らの支持があったからだとも考えられています。
関東では北条氏の名は絶大だったとする話もあるわけです。
それでも、逃げ上手と言われた北条時行も最後は捕まって命を落とした事になります。
尚、北条時行は朝廷の官職に興味を示さず、最後まで無位無官だったとされています。
鎌倉時代の北条氏も朝廷の官位に興味を示さない伝統があり、北条時行も引き継いだのでしょう。
北条時行生存説と子孫
北条時行ですが、生存説があり、北条時行は伊勢次郎と名を改め、子孫が繁栄した話があります。
信憑性が薄いとされていますが、伊勢次郎の子孫が伊勢新九郎であり、北条早雲と呼ばれる事になります。
北条家では北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直と続き関東に覇を唱えますが、最後は豊臣秀吉による小田原征伐により滅亡しています。
北条時行も生存説がある事から、英雄扱いされていたのかも知れません。