古代日本

一支国(一大国)は考古学的に証明され王都も存在した

2023年10月9日

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宮下悠史

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名前一支国
読み方いきこく、いきのくに
別名一大国
所在地壱岐

一支国は魏志倭人伝では一大国と書かれている国であり、現在の壱岐だと考えられています。

一支国は邪馬台国への道中にある国として魏志倭人伝にも紹介されており、朝鮮半島南部の狗邪韓国、対馬国に続き記載があります。

邪馬台国や投馬国、奴国などは国としては大きくても、民衆の描写がありません。

それに対し、一支国は民衆の描写があり、どの様な生活をしていたのかも記録されています。

尚、一支国には原の辻遺跡が紹介されており、これが一支国の王都だったのではないか?とも考えられています。

今回は壱岐にあったと考えられている一支国を解説します。

魏志倭人伝の記述

一つの海を越えて千余里

先にも述べた様に魏志倭人伝では一大国と記録されていますが、魏略逸文、梁書、隋書、北史には一支国と記録されており、ここでは分かりやすい様に一支国の名称で解説していきます。

一支国ですが、現在の壱岐であり対馬国から一つの海を渡り千里行くとあると記載されています。

中国の書物では狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国と海を渡りますが、全て千余里と書かれています。

魏志倭人伝などの記述で海を渡ると全て千余里と言うのは、当時の測量技術では海上の正確な測量は不可能であり、時間などを考えて大体の数字として千余里としたのでしょう。

一支国から海をまた一つ渡り千里行くと末盧国があると記述されています。

人口三千程

一支国の長官の名は卑狗、副官は卑奴母離と呼びます。

副官の卑奴母離は軍事長官だったとも考えられています。

魏志倭人伝によれば、一支国の広さは四方三百里ほどで竹や木が生えていて、藪が多いとあり三千程の民家があると記録されています。

対馬国が千戸ほどしかないのに対し、一支国は3倍の人口を擁する事になるでしょう。

壱岐は対馬よりも小さいですが、平地が対馬に比べると多く人口が多かったのでしょう。

ただし、現在の人口では対馬の方が壱岐よりも若干多いと言えます。

一支国の生活

一支国に田畑が存在していた話しはありますが、それほど多くは無かった様です。

一支国は田畑が少なかった事で、自国を賄うだけの穀物を得る事が出来ず、人々は南や北の海を渡り穀物を買い入れていると言います。

人々は九州や朝鮮半島に行き穀物を手に入れていたのでしょう。

朝鮮半島南部にあった弁韓倭人が鉄資源を得ていた話しがあり、弁韓から鉄を倭国に持っていくのに、一支国は中継地点になっていたのではないかとも考えられます。

一支国は田畑は少なくとも、何かしらの方法で生産を行い生計を立てていたのでしょう。

原の辻遺跡

壱岐で原の辻遺跡が発見されています。

原の辻遺跡は一支国の王都だったのではないか?と考えられており、政治、裁判、宗教など古代社会を形成する要素を兼ね備えていた事が分かっています。

魏志倭人伝などの史書からは簡略な記述しかなく、民家が三千余家あった程度の認識しかない場合が多いですが、実際の一支国は想像よりも遥かに発展していたのでしょう。

邪馬台国の時代の遺跡として吉野ケ里遺跡の名前が挙がる事があります。

吉野ケ里遺跡は規模は大きいですが、環濠が一重しかないのに対し、原の辻遺跡の環濠は三重もあります。

原の辻遺跡は壱岐の内陸に存在しますが、原の辻遺跡までの港が発見されており、港から原の辻遺跡までどの様に進んだのかも分かっています。

邪馬台国や卑弥呼、台与を巡って多くの議論が為されていますが、魏志倭人伝の記述を考古学的に説明出来たのは、一支国だけです。

尚、原の辻遺跡は一支国博物館と合わせて見学しておきたい所です。

原の辻遺跡長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触1092−1電話:0920-45-2065(原の辻ガイダンス)

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