韋晃は正史三国志や後漢書に名前がある人物であり、218年の許都襲撃事件の中心メンバーでもあります。
韋晃に関しては、分かっている事が少ないですが、王必を襲撃し討ち取れずに、殺害された事が記録されています。
三國志演義での韋晃は耿紀と仲が良かった話があり、曹操が魏王となり献帝を蔑ろにしている事に、怒りを感じていた事になっています。
韋晃と耿紀は金禕の腹の内を調べ上げ、吉邈と吉穆を仲間に入れる事となります。
ただし、三国志演義でも史実と同様の展開となり、最後は処刑されてしまいました。
尚、韋晃に関しては後漢書と正史三国志では、記述の違いがあり合わせて解説します。
正史三国志の記述
正史三国志の本文に、次の記述が存在します。
「建安23年(218年)春正月。漢の大医令吉本が少府の耿紀と司直の韋晃らと共に乱を起こした。
許を攻撃し丞相長史王必の陣営を放火した。
王必は潁川出身の典農中郎将厳匡と共に討伐し、謀反を起こした者達を斬った」
簡略な記述ですが耿紀と韋晃が中心となり、曹操に留守を任された王必を攻撃しましたが、王必・厳匡により失敗した事が分かります。
尚、正史三国志の注釈・三輔決録には金禕が乱の中心人物だった様な記述もあります。
ただし、耿紀と韋晃が処刑される点は同じです。
後漢書の記述
後漢書の孝献帝紀に、次の記述が存在します。
「少府の耿紀と丞相司直の韋晃が挙兵した。
耿紀と韋晃は曹操を誅殺しょうとしたが、克てずに三族を皆殺しにされた」
後漢書の記述だと吉本や金禕、吉邈、吉穆の名前が登場せず、謀反に失敗し三族が処刑された記述があります。
後漢書も正史三国志も記述自体は、簡略ではありますが、反乱に失敗し処刑された事だけは共通しています。
韋晃の最後
献帝春秋に韋晃と耿紀に関する最後の、記述があるので紹介します。
謀反が失敗した韋晃らは、逮捕され処刑される事となります。
耿紀は首を斬り落とされる時に「自分で謀を行わず小童に狂わされた」と嘆きながらも、曹操を罵り最後を迎えています。
それに対し、韋晃の最後に関しては、次の記述が存在します。
「韋晃は頭に地を打ち付け、頬を叩き死んで行った」
韋晃のやりきれない思いが、自分の頭を地面に打ち付けたり、頬を叩いたりする行動となって現れたのでしょう。
韋晃の処刑される直前の行動は、悔しさがにじみ出ている様にも感じました。
この時には、曹操は既に魏王となっており、韋晃と耿紀が後漢王朝が存続する唯一の希望だった様に思います。
しかし、謀反に失敗した事で、献帝は退位を迫られ、後漢王朝が滅亡する未来が見えたのでしょう。