室町時代

岩松直国は新田氏の庶流でありながら足利氏に与し続けた

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宮下悠史

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名前岩松直国
生没年不明
時代南北朝時代
一族父:岩松政経 兄弟:世良田義政、経家、頼有
子:満国
コメント新田氏の庶子の家系だが、一貫して足利氏を支持した。

岩松直国は南北朝時代に上野国に所領を持ち活躍した武将です。

岩松氏は新田氏の庶子の家柄ですが、新田義貞ではなく足利尊氏に従いました。

観応の擾乱では最終的に足利直義に与した事で没落しますが、尊氏死後に幕府復帰しています。

畠山国清の乱で活躍し、芳賀禅可との戦いでは総大将の足利基氏を救う程の活躍を見せています。

今回は新田氏の庶流でありながら一貫して、足利氏を支持した岩松直国の解説です。

岩松直国の出自

岩松直国は建武の新政が始まった1334年には元服していた事が分かっています。

生年に関しては分かっていません。

岩松直国の兄が岩松経家だとも考えられています。

岩松直国の「直」の文字は、建武政権から鎌倉将軍府を任された足利直義からの偏諱にによるものでしょう。

岩松直国と尼妙蓮

1334年に岩松直国は尼妙蓮(岩松時兼の娘)から、上野国新田荘成塚郷を譲られた記録があります。

尼妙蓮から成塚荘の土地を譲られた件が、資料上の岩松直国の最初の事例です。

岩松直国が譲られた成塚荘は女系で相続された所領であり、尼妙蓮に後継者がいなかった事で岩松直国が養子となり相続が決まりました。

岩松氏の惣領となる

1334年に北条時行や諏訪頼重による中先代の乱が勃発しました。

北条時行の諏訪神党を中心とする軍は、鎌倉を目指す事になります。

鎌倉将軍府の足利直義岩松経家と渋川義季に迎撃させますが、女影原の戦いの戦いで最後を迎えました。

岩松氏の惣領である兄の岩松経家が亡くなり、子の岩松泰家がまだ幼く、岩松直国が後継者となります。

岩松直国は普通であれば庶子で終わるはずが、兄の戦死により惣領となり一族の中心人物となったわけです。

新田氏と足利氏

中先代の乱は足利尊氏が鎮圧しますが、そのまま鎌倉に残り論功行賞を始めました。

後醍醐天皇は激怒し新田義貞に鎌倉討伐を命じています。

後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵扱いしますが、足利尊氏の方では新田義貞を君側の奸とし新田氏と足利氏の対立が深まりました。

足利尊氏と直義の論功行賞であっても新田義貞が上野守護になっているにも関わらず、新たなる上野守護として上杉憲顕を任命している事から、足利尊氏と新田義貞の対立は避けらなかった事でしょう。

新田義貞には足利尊氏と戦うしか道が無く、岩松直国は新田氏の庶子だった事から迷いはあったはずです。

ここで岩松直国は足利尊氏を選択し、以後は一貫して足利陣営を貫く事になります。

ただし、太平記の中に「岩松兵衛蔵人義正」なる人物の名前が新田義貞の軍勢におり、全ての岩松氏の一族が足利氏を支持したわけでもないのでしょう。

宗徒の一族

足利尊氏は箱根竹ノ下の戦いで新田義貞を破ると、そのまま近畿に雪崩込みますが戦いには敗れ九州に落ち延びました。

九州の多々良浜の戦いで多くの武士たちの心を掴み、大軍となって上洛し後醍醐天皇を幽閉し室町幕府を開いています。

太平記を見ると足利尊氏の「宗徒の一族」として岩松の名前を何度かみる事が出来る為、岩松直国は足利尊氏と行動を共にしたと考えらえています。

正木文書によると、足利軍の京都の戦いにおいて東坂本へ進軍中の岩松直国に対し、足利直義が参陣する様に軍勢催促状が発給されており、後醍醐天皇を比叡山に包囲するに至る京都の戦いでは、足利尊氏に味方した事は確実でしょう。

尚、最終的の後醍醐天皇は吉野に逃れ南北朝時代が始まる事になります。

新田氏の惣領

1347年に岩松直国は足利尊氏から上野国新田荘内由良郷・成墓郷の地頭職に補任されました。

岩松直国が地頭に任ぜられた由良荘は、新田惣領家の所領だったとされています。

新田氏の惣領の所領を直国が得ている事から、足利尊氏は岩松直国に惣領の地位を与えた事になるでしょう。

尚、この頃の上野守護である上杉憲顕の娘を妻として娶ったと考えられています。

上杉憲顕は上洛して足利直義と働きたいと述べた話しもありますが、足利方の関東の要となっている人物であり、上杉憲顕は政略結婚により岩松直国との連携を深める必要があったのでしょう。

観応の擾乱の始まり

1349年に室町幕府内で観応の擾乱が勃発し、高師直の御所巻により足利直義が出家し失脚しました。

足利直義が失脚した事で足利尊氏の嫡子で鎌倉にいた足利義詮が上洛し、代わりに弟の足利基氏が鎌倉に向かう事になります。

さらに、高氏の一族である高師冬が関東に行き関東執事として、上杉憲顕と並び立つ存在になりました。

足利尊氏と高師直は九州の足利直冬討伐に向かいますが、この時を待っていたかの様に足利直義が大和で挙兵しています。

この時に足利直義は上野国新田荘内世良田の長楽寺へも祈祷命令を出しています。

新田荘に祈祷命令を出す辺りは、足利直義と岩松直国の関係は良好だったと考える事が出来るはずです。

観応の擾乱の前半戦は足利直義が優位に戦いを進め、打出浜の戦いで足利尊氏及び高師直を破りました。

関東では上杉憲顕が足利基氏を擁立し、高師冬は甲斐に逃げ延びています。

甲斐に逃げ延びた高師直は上杉憲顕や諏訪直頼らの攻撃を受けて世を去り、高師直・高師泰兄弟も暗殺され高一族は没落しました。

岩松直国と執事施行状

足利直義高師直が争う観応の擾乱の中で、不思議な光景があった事が分かっています。

高師直は上杉憲顕に上野国新田荘内の世良田右京亮と桃井刑部大輔などの跡地を、岩松直国に引き渡す様に命じました。

世良田右京亮は南朝に与した新田一族であり、当然ながら室町幕府は土地を没収しようとしたのでしょう。

桃井刑部大輔は桃井直常を指すと見られており、桃井直常は足利直義を熱烈に支持する人物であり、高師直は直義派弱体化の為に桃井直常の所領を没収しようとしたと見る事も出来ます。

世良田右京亮と桃井刑部大輔の土地を岩松直国に宛て行う行為を見ると、岩松直国は足利尊氏や高師直の派閥にも見えるわけです。

岩松直国の兄弟とされ伊予や備後の守護を務めた岩松頼有は和泉・備後の世良田右京亮跡と新田荘内の木崎村安養寺を尊氏の袖判下文で宛て行っています。

この様な状況を見ると岩松直国は足利尊氏に与している様にも見えますが、足利直義にも近しき立場であり、観応の擾乱の前半戦では、どちらに味方したのか分かりにくいと言えるでしょう。

ただし、高師直が執事施行状を発行した日は上杉憲顕が甲斐へ高師冬を追いやり、鎌倉に戻る時期であった事から、高師直の執事施行状が上杉憲顕に届いたのかは不明です。

岩松氏の没落

観応の擾乱での岩松直国の動向を示す資料は現時点では存在しません。

しかし、岩松直国の「直」の文字は足利直義より一字拝領しており、妻の父親である上杉憲顕が直義派として活動している所を見ると、直義派だったのではないかと考えられています。

観応の擾乱の前半戦で足利直義が勝利した後に、岩松直国は本知行地を安堵されていますし、直義派が圧倒的に優勢な関東において、上野の地頭職である岩松直国が逆らう理由もなかったと考える事が出来るはずです。

しかし、足利直義は最終的に観応の擾乱で敗者となり、1352年に亡くなりました。

足利尊氏は観応の擾乱での論功行賞で足利直義に与した東国の守護達を一斉に解任しており、上杉憲顕も守護職を解任されています。

岩松直国は武蔵国万吉郷に領地を持っていましたが、薩埵山体制で武蔵国の守護となった畠山国清の兄弟である畠山義深らにより、伊豆国吉祥寺に寄進されています。

万吉郷は岩松氏の先祖代々の土地であり、観応の擾乱での争いのより没収されたと見る事が出来るはずです。

岩松直国は義父の上杉憲顕と同様に没落したとみる事が出来ます。

頼印僧正行状絵詞によると、岩松直国は隠遁生活に入った様です。

幕府に復帰

1358年に足利尊氏が亡くなると足利義詮の政策もあり、多くの直義派の武将が幕府復帰しました。

この流れに岩松直国も乗り再び室町幕府の武将となっています。

畠山国清が乱を起こすと鎌倉公方の足利基氏は白旗一揆、上野国藤家一揆、和田宮内少輔らと共に、伊豆への出陣を命じています。

頼印僧正行状絵詞によると畠山国清討伐に向かった岩松直国は、伊豆国立野城へ進軍し「高名」を挙げたとあります。

頼印僧正行状絵詞には「岩松治部大輔真義」と書かれていますが、これが岩松直国だと考えられています。

畠山国清討伐では激戦だったらしく岩松直国も負傷したとありますが、名誉の負傷であり足利基氏は称賛しました。

岩松直国は畠山国清の乱で大きな繰功績を挙げており、直義派の復帰に一役買ったと言えるでしょう。

尚、この戦いでの働きを足利基氏は高く評価し、合戦中にも関わらず岩松直国の本領を元に戻す約束をしています。

戦いの最中であった為に、安堵下文は後日出される事になりましたが、足利基氏の信頼を勝ち取った事は間違いないでしょう。

因みに、岩松直国の幕府復帰は足利義詮や幕府中枢の働きもあったとされています。

足利基氏を救う活躍

足利基氏は上杉憲顕を上野守護などに復帰させるなどし、関東管領にしようと考えました。

旧直義派の厚遇は旧尊氏派の後退を意味し、宇都宮氏綱と芳賀禅可の反発が大きかったわけです。

足利基氏は芳賀氏の討伐に乗り出しますが、この戦いにも岩松直国は参戦しています。

芳賀禅可と足利基氏の軍は武蔵国苦林野で合戦となりますが、激戦であり総大将の足利基氏までもが刀を抜いて戦った話まで伝わっています。

足利基氏は鎧で敵にバレてしまい狙い撃ちをされそうになりますが、これに気付いた岩松直国は自らの鎧と交換させました。

鎧を着た岩松直国は足利基氏の振りをして戦い、家臣までもが直国を救う為に奮戦しています。

岩松直国は勝利に大きく貢献し、義父の関東管領・上杉憲顕は関東管領に復帰しました。

この戦いが太平記に記述された岩松直国の唯一のシーンだと伝わっています。

岩松直国の最後

足利基氏は1367年に亡くなってしまいますが、第二代鎌倉公方である足利氏満に岩松直国は仕えました。

1385年に新田氏の謀反の話があり直国が使者を捕らえて、鎌倉府に差し出すなどしています。

岩松直国が何年に亡くなったのかは不明ですが、1392年には息子の岩松満国が活動している事が分かっており、この頃までには没していたと考えられています。

岩松直国は鎌倉公方を補佐する臣下として世を去ったのでしょう。

岩松直国の動画

岩松直国のゆっくり解説動画となっています。

この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝をベースに作成しました。

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