春秋戦国時代

韓武子は鄭への侵攻を始めた

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宮下悠史

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名前韓武子
本名韓啓章
時代春秋戦国時代
生没年生年不明ー紀元前409年
一族父:韓康子 子:韓の景侯

韓武子は春秋戦国時代の君主です。

韓武子は韓啓章の名でも知られています。

韓康子が亡くなると韓の当主になりました。

韓武子の時代は趙襄子が没し魏の文侯の正卿となった時代です。

韓は鄭への進出に入りますが、と対立する事になります。

鄭を取るために施策の一つとして、韓武子は平邑から宜陽に本拠地を遷しました。

韓武子に関しては、史記でも鄭の幽公を殺害したこと位しか実績が分かりませんが、今回は分かっている事を解説します。

鄭への侵攻

韓武子の時代の特徴として、鄭への侵攻を開始した事が挙げられます。

では智伯が鄭への侵攻を行っていましたが、趙襄子が正卿の時代になると中断されていました。

韓武子は趙襄子が亡くなり、魏の文侯が晋の正卿となると鄭への進出を画策しました。

紀元前423年に韓武子は鄭を討ち、鄭の幽公を殺害しています。

史記にも韓武子が鄭の幽公を討ち殺害した記録がありますが、詳細は不明であり、どの様にして韓武子が、鄭の幽公を討ったのかは不明です。

殺害したと言う事は、戦いに勝利して捕えたという事なのかも知れません。

本拠地を移す

韓武子はの当主になった頃は、平邑を本拠地としていました。

しかし、呂氏春秋任数の高誘注には「武子・景侯が宜陽、陽翟に都した」とあり、韓武子が本拠地を移動した事が書かれています。

韓武士が本拠地を移した宜陽は、鄭に近づいており、鄭を取るための布石として、韓は宜陽や陽翟に本拠地を移していったのでしょう。

韓は最終的に新鄭を首都としています。

趙の献公もこの時期に、中牟に本拠地を移しており、中原への進出を目指しました。

楚との対立

韓武子は鄭への侵攻を開始しましたが、楚は鄭を支持しました。

これにより韓とは対立する事になります。

楚は紀元前413年に上洛に侵攻しました。

これらの地域は、范氏や中行氏の滅亡後は韓が領有していました。

韓武子の最後

韓武子は紀元前409年に亡くなった事が分かっています。

年齢やどの様にして亡くなったのかは記録がなく不明です。

韓の景侯が立ちますが、鄭への侵攻は継続される事になります。

韓武子の時代に韓は楚と対立していましたが、は斉や秦とも対立しておりで団結してと対峙する事が出来ませんでした。

先代:韓康子韓武子次代:韓の景侯

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