春秋戦国時代

関其思は策の犠牲になる

2024年6月8日

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宮下悠史

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名前関其思(かんきし)
生没年不明
勢力
主君鄭の武公
コメント韓非子の説難に逸話がある

関其思は鄭の武公に仕えた人物であり、韓非子の説難にある処知則難の話でも有名な人物です。

関其思は主君である鄭の武公の心を理解し胡を討つ様に進言したわけですが、処刑されてしまった人物でもあります。

しかし、鄭の武公は胡を討ち大勝しました。

苦肉の策と言えば三国志の周瑜黄蓋の逸話が有名ですが、鄭の武公と関其思の話も苦肉の策だと考える人もいます。

歴史作家の宮城谷昌光氏の「沈黙の王」に「豊饒の門」という短編小説が掲載されており、関其思が登場します。

豊饒の門の関其思では重要な役割を果たしますが、史実なのかは不明です。

韓非子における関其思

関其思の進言

関其思の逸話は韓非子に記述されています。

韓非子によると鄭の武公は胡を討とうと考えました。

そこで鄭の武公は自分の娘を胡の君主に嫁がせる事にします。

ここで鄭の武公は「私は軍を出し征伐を行おうと思うが、何処を討つべきだろうか」と群臣に問いました。

すると、関其思が「胡を討つべきです」と答えたわけです。

関其思は鄭の武公の考えが分かっており、先走って胡を討つ事を勧めたとも言えるでしょう。

鄭の武公は関其思の事を嫌っていたのか、激怒し関其思を処刑し「胡は兄弟の国である。それを討てとは何事だ」と述べました。

関其思を処刑した事を聞いた胡の君主は、鄭は胡に親しんでいると考えて警戒を怠る様になります。

鄭の武公は胡の防備が緩んでいる事を見るや兵を繰り出して、鄭は胡を多いに打ち破り占領してしまったわけです。

関其思の言った通りの事を鄭の武公が実行し、大戦果を挙げたとも言えるでしょう。

隣の家の老人

韓非子で関其思の話とセットになっている逸話があり、紹介しておきます。

宋国に金持ちがおり雨で土塀が壊れてしまいました。

この時に、息子が「土塀を早く直さないと泥棒に入られる」と述べて、隣の家の老人も同じ事を言ったわけです。

その日の夜に、本当に泥棒が入り多くの財産を奪われてしまいました。

金持ちの家では息子の聡明さを褒め称えたと同時に、隣の家の老人を「犯人ではないか」と疑ったわけです。

処知則難

関其思と隣の家の老人は正論を言った事になります。

しかし、関其思は処刑され、隣の家の老人は泥棒だと疑われた事になります。

韓非子は関其思と隣の家の老人に対し「知る事が難しい事ではない。知った事をどう対処するのかが難しい」と述べました。

これが「知に処すること則ち難し」や「処知則難」の元ネタとなっています。

この話は韓非子の中の説難に記録されており、韓非子自身も自らが説難を説きながらも、で殺害されており、対処の難しさを物語っているのでしょう。

尚、春秋戦国時代に趙襄子が姉を代王に嫁がせて油断させ、代王を宴会に招き殺害してしまった話があり、鄭の武公の話を元にした可能性もあるはずです。

豊饒の門における関其思

先にも述べた様に、宮城谷昌光氏の書籍『沈黙の王』の掲載されている短編小説の「豊饒の門」に関其思が登場します。

豊饒の門では鄭の桓公周の幽王と共に申侯や犬戎の軍と戦いますが、この時に鄭の武公や関其思は成周にいました。

鄭の武公は兵を派遣し鄭の桓公の状況を確認しようとしますが、ここで関其思が制止する事になります。

鄭の武公の家来たちは全員が兵を出し鄭の桓公の状況を探ろうとする案に賛成しますが、関其思だけが反対し、一人の反対に鄭の武公は手こずる事になります。

関其思は鄭の桓公に鄭の武公を後継者にしない様に述べていた話も掲載されており、鄭の武公は関其思を嫌っていたとする設定にもなっていました。

この直後に鄭の桓公が殺害された報告が入ると、関其思は鄭の武公に人払いをする様に述べます。

関其思は鄭の桓公の伝令を聞いていると述べ周の幽王か伯服が生存していたなら、そのまま成周に籠ればよく、両方が亡くなっていたら申候が推戴する周の平王を担げというものでした。

さらに、周の携王には加担してはならないと告げます。

鄭の武公は悩みますが、申に向かう事になります。

宮城谷昌光氏の豊饒の門にも胡と鄭の武公と関其思の逸話が掲載されています。

その中で宮城谷氏は関其思が鄭を討つ様に述べた時に、鄭の武公は本当に関其思が憎いと思って殺害したが、その後で策として使える事に気付いた可能性があると述べています。

宮城谷氏の小説『豊饒の門』は内容的には面白いのですが、関其思の逸話は韓非子の鄭の桓公と胡の話以外に見つける事が出来ず、何処までが本当なのかは不明です。

史実なのか創作なのか分からない部分でもあります。

因みに、韓非子の別の話では周の幽王の死後も鄭の桓公が生存しており、実際には鄭の桓公は周の幽王と共に亡くなったわけではないとも考えられています。

鄭の桓公が亡くなっていないのであれば、宮城谷昌光氏の小説は創作という事になるでしょう。

それでも、関其思が智謀の士だと言うのは当たっている様にも感じました。

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