名前 | 黄蓋(こうがい) 字は公覆 |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
国 | 呉 |
コメント | 赤壁の戦いでの活躍が有名だが、実際には異民族討伐でも大活躍している。 |
年表 | 190年 董卓との戦い |
208年 赤壁の戦い |
黄蓋(こうがい)は赤壁の戦いでは、周瑜に火計を進言し、呉を勝利に導いた立役者でもあります。
しかし、実際の黄蓋は赤壁の戦いだけではなく、数多くの異民族を討伐した人物でもあります。
荊州などで異民族が反乱を起こした際には、孫権は黄蓋を長官に起用し、反乱を鎮圧させた事が多くありました。
黄蓋は武人としてのイメージが強いですが、史実の黄蓋は武力が優れているだけでなく、知略もあり人心掌握にも優れていた人物です。
今回は孫堅、孫策、孫権と孫家三代に仕えた武将である、黄蓋を解説します。
黄蓋の活躍が赤壁の戦いだけではない事を、知って頂ければ幸いと思います。
尚、上記は私が作成した黄蓋のゆっくり解説動画となっております。
黄蓋は正史三国志では程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝に、下記の人物と一緒に収録されています。
武の面から孫呉を支えたと陳寿から評価された事になります。
黄蓋の出自
正史三国志によると黄蓋の先祖が荊州の零陵に住むようになり、そのまま黄蓋の代まで零陵に家を置いたとあります。
黄蓋は幼い頃に父親を失い、不幸が重なった事から貧しい生活を余儀なくされた話があります。
若き日の黄蓋は逆風が強かったわけですが、大志を忘れず時間があれば上表文の書き方や兵法の研究を行っていました。
黄蓋は勤勉で部分が皆に認められたのか、郡の太守となります。
さらに、黄蓋は孝廉に推挙されています。
因みに、黄蓋は正史三国志の『程黄韓蒋周陳董甘淩徐潘丁伝』に記述があり、黄蓋の他には下記の人物が収録されています。
程普、韓当、蒋欽、周泰、陳武、董襲、 甘寧、淩統、徐盛、潘璋、丁奉
この中で孝廉に推挙されたのは、黄蓋ただ一人です。
因みに、後漢末期で孝廉に推挙されるのは、10年に数人の難関な試験だったとも考えられています。
それを考えれば、孝廉に推挙された黄蓋などは並大抵の人物ではないと、評価されていた事になるでしょう。
若き日の黄蓋は兵法を学んでいた話しもあり、これが後に赤壁の戦いや異民族討伐に役立った様に感じます。
孫堅の配下時代
正史三国志によれば、黄蓋は孫堅が義兵を挙げると、孫堅の配下に加わったとあります。
孫堅は長沙太守だったわけであり、長沙と黄蓋の出身地である零陵は距離的に遠くない事もあり、孫堅の軍に黄蓋は加わったのでしょう。
正史三国志によれば、黄蓋は孫堅配下として山越族や董卓を討った時に、功績があり別部司馬の位を授かったとあります。
これを見ると黄蓋が反董卓連合や異民族討伐で活躍した事は分かりますが、簡略な記述しかなく具体的な活躍が分からない状態です。
それでも、史実で孫堅軍は、董卓軍の徐栄や胡軫、呂布らと陽人の戦いが起きており、黄蓋は陽人の戦いでも何らかの活躍はあったのでしょう。
石城県の長官となる
二人の属官
孫堅が戦死すると、黄蓋は孫策に仕えた話があります。
孫策は孫堅の兵士らを袁術に没収された話もあり、最初は孫策と離れてしまいますが、孫策が江東を制圧する段階になると、孫策の配下に加わったのでしょう。
孫策時代の話なのか、孫権時代の話なのかは不明ですが、正史三国志に黄蓋が石城県の長官になった話があります。
当時の石城県は綱紀が乱れており、手に負えない状態であり、治めるのが難しい土地の長官に黄蓋は任命されました。
黄蓋は二人の属官を任命し、次の様に述べています。
黄蓋「儂は不徳の者であり、武功により役目を果たして来たが、文官としての実績がない。
現在の石城県では、反逆者や侵略者の平定が終わってはいないし、軍務を辞めるわけにはいかない。
そこで、お前たち二人を儂の属官に任命し、文書の処理は、全てお前たち二人でやって貰いたい。
お前たち二人は、諸々の官署を監督し、問題があれば糾弾及び摘発を行って欲しい。」
黄蓋は属官の二人に任務の説明を行い、さらに、次の様に続けます。
黄蓋「お前たちが収入支出の認可において、誤魔化しや不正があった場合は、棒叩きや鞭打ちで済ませる気はない。
お前たちは、心を尽くして仕事に励み、人々の見せしめとして、刑罰を受ける事が無い様にせよ。」
黄蓋は属官の二人に不正があった場合は、厳しく処分すると伝えたわけです。
属官を処刑
最初のうちは、黄蓋に任命された属官の二人は、黄蓋の威を恐れて真面目に仕事をしていました。
しかし、二人の属官は黄蓋が文書に目を通さない事を良い事に、段々と自分勝手になって行ったとされています。
黄蓋は石城県の服務規律が乱れている事に気が付き、独自で調査を行います。
黄蓋は二人の属官が法をないがしろにしていると、知る事となりました。
黄蓋は全ての役人を集めて酒宴を開きます。
酒宴の席で黄蓋は二人の属官を皆の前で、詰問する事になります。
属官の二人は黄蓋に対して言い逃れ出来ないと悟ると、謝罪しますが、黄蓋は次の様に述べています。
黄蓋「儂は其方らを属官に任命した時に、不正があった場合は棒叩きや鞭打ちで済まさぬと伝えたはずだ。
儂が其方ら二人を処刑したとしても、儂が其方らを騙した事にはならぬであろう。」
黄蓋は属官二人を処刑すると、役人たちは驚き震えあがります。
黄蓋が威を見せた事により、石城県はよく治まったのでしょう。
尚、黄蓋が違反をした部下を斬り捨てたやり方は、春秋時代に司馬穰苴が行っていますし、楚漢戦争で活躍した彭越も行った手法です。
それを考えれば黄蓋にも、古の名将の風格があったと言えるのかも知れません。
黄蓋は春穀県、尋陽県など9つの県の長官を務めますが、黄蓋が赴任した県では、どこも平穏が保たれたとあります。
威厳がある人物
石城県での経緯を見ると、黄蓋は厳しい人物に思うかも知れません。
しかし、正史三国志によれば黄蓋は
「風貌に威厳はあったが、兵士達の生活には気を遣っていた。
軍を動かし討伐を行えば、士卒たちは先を争って戦いに挑んだ。」
黄蓋は不正に対しては厳しくも兵士達の面倒見はよく、兵士達に信頼されていた事が分かります。
戦国時代の初期に活躍した呉起なども、法令は厳しかったようですが、兵士には優しかった話もあり、呉起の様な統率法を黄蓋は採用していたのかも知れません。
黄蓋が人心掌握にも長けていた事は明らかでしょう。
信賞必罰なども徹底していたはずです。
赤壁の戦い
火計を進言
黄蓋の最大の見せ場は赤壁の戦いであり、周瑜伝などにも活躍の記録が残っています。
史実の黄蓋は周瑜に対して、次の様に進言した話があります。
黄蓋「初戦では曹操軍に勝利しましたが、我が軍の兵士は少なく、敵は多勢で物資も豊富にあります。
この様な状態で持久戦になれば、我が軍に勝機は無いでしょう。
現在の曹操軍を見てみると戦艦が互いに、船首と船尾が繋がっています。
今の状態で焼き討ちを掛ける事が出来れば、敵を敗走させる事が出来るはずです。
蒙衝(駆逐艦)、戦艦(戦艦)を数十隻選び出し、よく燃える焚き木、草、油を詰め込み曹操軍に突っ込ませるのが良策です。」
さらに、黄蓋は偽りの降伏の手紙を、曹操に出す様に進言しました。
三國志演義だと龐統が曹操軍の船を連環の計により、繋げた事になっていますが、史実だと何もしなくても、曹操軍は船を繋げてしまっています。
周瑜と黄蓋の芝居である苦肉の策も三国志演義だけに存在しており、史実では周瑜と黄蓋が苦肉の策を行った記録はありません。
尚、曹操は袁紹との官渡の戦いでは、許攸が寝返った事で勝利しています。
さらに、荊州の劉琮を降伏させた時は、劉琮配下の蒯越、蔡瑁、文聘、韓嵩、鄧義らを厚遇していた事で、黄蓋も降伏すれば多大な恩賞を得られる事は確実だったわけです。
曹操は過去の成功体験などもあり、黄蓋を信じてしまったのでしょう。
曹操の天下統一を拒む
黄蓋は焚き木や荻に油をよく仕込むなど火計の準備を行い、旗差し物を用意し曹操軍に近づく事になります。
曹操軍に近づくと黄蓋は帆を上げて兵士達に降伏を叫ばせました。
曹操は黄蓋が寝返ると思っており、兵士らに黄蓋を攻撃せぬ様に命令していたわけです。
曹操軍まで2里の距離に近づくと、黄蓋は一斉に船に火を点けて、焼き討ち用の船を切り離しました。
黄蓋の火計は成功し、周瑜や呂蒙、甘寧は軽装の精鋭を率いて、炎の延焼を追う様に追撃した話があります。
便所に放置
赤壁の戦いの時に、黄蓋は曹操軍と戦いますが、矢を受けてしまい長江に落ちた話があります。
この時の長江の水は寒く、黄蓋は溺れてしまいますが、兵士らに助けられています。
黄蓋は水に溺れてしまい、みすぼらしい姿となってしまいます。
赤壁の戦いは曹操が退いた事で、呉軍の大勝利に終わりますが、黄蓋は便所に放置されてしまいました。
誰も黄蓋だと気が付かずに便所に放置されたままだったのですが、韓当がたまたま通り掛かります。
黄蓋は韓当を見るや、気力を振り絞って韓当の名を叫びました。
韓当は黄蓋が亡くなってしまったと思っていたのか、黄蓋の姿を見ると衣服を着させ涙を流した話があります。
韓当も黄蓋も孫堅の時代から孫家に仕えていたわけであり、特別な気持ちがあったのでしょう。
韓当も黄蓋の姿が見えない事から心配し、黄蓋を探していたのかも知れません。
尚、呉軍の兵士達が黄蓋だと気が付かなかったのは、同じ呉軍でも言語がバラバラであり、言葉が分からなかったのではないか?とする説もあります。
赤壁の戦いは黄蓋の活躍もあり大勝利に終わりますが、思わぬオチがついたとも言えるでしょう。
武陵郡の異民族を平定
恩徳と刑罰
何年の事なのかは不明ですが、武陵郡の異民族が反乱を起こし、城邑を攻め落とし立て籠もった話があります。
この時に黄蓋が武陵郡の太守に任命されています。
黄蓋であれば治安が悪くなった、武陵郡を上手く平定出来ると考えて、孫権が任命したのでしょう。
黄蓋は武陵郡の太守となりますが、使える兵士が僅か五百しかおらず、普通に戦っては反乱が鎮圧出来ないと悟ります。
黄蓋は城門を開き半分の敵兵が城内に入った所で、攻撃を掛けて数百の敵を討ち取った話があります。
黄蓋が数百の敵を斬った事で、反乱軍は四散し元の部落に戻ったとあります。
黄蓋は反乱を起こした首謀者だけを誅し、従っただけの者には罪を問いませんでした。
黄蓋は短期間で反乱を全て鎮圧し、巴、醴、由、誕などの蜀と誼を結んでいた異民族も、黄蓋に感じ入り礼を持って呉と誼を結んだ話があります。
武陵郡の平定の話を見ると、黄蓋は恩徳と刑罰を上手く使い、異民族の心を掴んでいる事が分かります。
武陵郡が平和になると、長沙の益陽県の長官に黄蓋が選ばれました。
益陽県では山越族の攻撃を受けていた事で、黄蓋が抜擢されたのでしょう。
ここでも黄蓋は活躍し、偏将軍に任じられています。
武陵郡の平定はいつ頃の事なのか?
黄蓋が武陵郡を平定したのはいつ頃なのか?に関しては、諸説があります。
赤壁の戦いの後に、周瑜ら呉の主力は曹仁が籠る江陵を攻撃しています。
その間に、劉備は荊州の武陵、長沙、桂陽、零陵などの荊州四郡を制圧しました。
劉備が荊州の四郡を攻撃する時に、黄蓋も武陵を平定する為に動いており、その時の話が黄蓋の武陵平定の話だとする説です。
これを信じるのであれば、劉備が武陵を守る金旋と戦っている間に、黄蓋は武陵の異民族討伐に動いていた事になるでしょう。
もう一つの説が、劉備の入蜀後に呂蒙や陸遜の策を用いて、関羽を斬った後です。
荊州を守る蜀の関羽を呉で討った事で、武陵は完全に呉の勢力圏となりました。
呉の勢力圏となった武陵郡で、異民族の反乱を置き、黄蓋に鎮圧を命じられた説となります。
どちらが本当なのかは不明ですが、黄蓋の武陵討伐では蜀と誼を結んでいた巴、醴、由、誕などの異民族が登場する事から、個人的には後者の関羽が亡くなり、荊州の南部が呉の勢力圏になった時の話だと感じます。
ただし、後述しますが黄蓋の死は215年頃だった説もあり、それを信じるのであれば、黄蓋の武陵異民族討伐は前者である、赤壁の戦いの後となるでしょう。
それか、魯粛が関羽と単刀赴会を行い、魯粛は蜀から桂陽と長沙の二郡を返還させ、武陵と零陵は蜀の領地としました。
しかし、可能性として武陵郡の一部も呉に返還した可能性もあるのかも知れません。
黄蓋の武陵郡平定を考える上で、劉備と孫権の関係を綿密に調べ、どの様に治めていたのか知る必要がありそうです。
黄蓋の最後
黄蓋の死因は病死
正史三国志によれば、黄蓋が偏将軍になった後に、次の記述があります。
黄蓋「病気のまま、黄蓋は在官のまま死去した。」
上記を見る限りだと、死因は病死だと分かりますが、何年の事なのかは記載がありません。
しかし、正史三国志では、「黄蓋は職務を行う時に決断が早く、先延ばしする事も無く、呉の人々は黄蓋を偲んだ。」との記述があります。
それを見るに、黄蓋の死は多くの人々から惜しまれていた事が分かります。
黄蓋は厳しくも優しい人物であり、部下に慕われていた事から、多くの人々が黄蓋の死を悲しんだ様に思います。
黄蓋の最後は西暦215年頃だった!?
孫静伝に下記の記述が存在します。
「黄蓋と兄の孫瑜が死去すると、彼らの配下の兵を併せて、孫皎が指揮を取った」
上記の記述から孫瑜と黄蓋が死去し、孫皎が兵士を指揮する事になった話があります。
孫瑜が亡くなったのは、西暦215年であり、同じ頃に黄蓋も亡くなったとも読み取る事が出来ます。
孫皎は呂蒙や陸遜の関羽討伐にも参加しており、関羽征伐が終わった直後に没しています。
孫皎が没した年は、西暦219年ではっきりとしており、孫皎が亡くなった黄蓋の兵を指揮するには、黄蓋は219年以前に亡くなっていなければなりません。
それを考えると、黄蓋の死は西暦215年から西暦219年の間になるはずです。
ただし、そうなると武陵の異民族平定に関しては、どう扱えばいいのか・・・。という部分も出て来るわけですが・・。
黄蓋の子孫
正史三国志によれば、孫権は西暦229年に皇帝を名乗ります。
皇帝となった孫権は黄蓋の生前の功績を評価し、息子の黄柄に関内侯の爵位を授けたとあります。
関内侯は封国を持たない爵位ではありますが、黄蓋が孫堅、孫策、孫権と孫呉三代に忠実に仕えた事に報いたのでしょう。
呉書によれば孫権は「黄蓋の肖像を描いて季節ごとにお祭りをした」とした記述もあり、孫権にとってみれば黄蓋は感慨深い臣下だった様に思います。
ただし、黄蓋の子孫で黄柄以降の事は分かっておらず、呉の滅亡時に何をしていたのかもわかりません。
三國志演義の黄蓋
顔良・文醜と睨み合う
三國志演義での孫堅時代の黄蓋の活躍を記載します。
孫堅は董卓が李儒の進言により長安に遷都すると、孫堅は洛陽に入り玉璽を見つけます。
袁紹は孫堅が玉璽を手に入れた話を耳にすると、引き渡す様に要求しますが、孫堅は「持っていない」と言い張ります。
この時に袁紹配下の顔良、文醜と孫堅配下の程普、黄蓋、韓当の3人で睨み合いとなりました。
三國志演義では、孫堅は国に帰ろうとしますが、途中で劉表に攻撃されています。
黄蓋は劉表軍との戦いの中で、蔡瑁を倒すなどの活躍もあります。
ただし、黄蓋は蔡瑁は倒しただけであり、討ち取ったわけではありません。
孫堅の死
正史三国志には孫堅が亡くなった時に、黄蓋がどの様な行動を取ったのかは不明です。
三國志演義だと孫堅軍は劉表方の黄祖を破り、黄祖は劉表がいる襄陽まで撤退する事になります。
孫堅は陸軍を率いて、劉表の本拠地である襄陽の攻略に取り掛かり、黄蓋は水軍を率いて漢口に兵を進める事になりました。
しかし、孫堅は蒯良の計略に掛かり命を落としてしまいます。
黄蓋は鬨の声を耳にし、異変に気が付き兵を進めると、黄祖の軍勢と出くわせました。
黄蓋は黄祖を蹴散らし、黄祖を捕虜としています。
黄蓋は孫堅が亡くなった事を知り、孫堅の長男である孫策は、孫堅の遺体が敵の手にある事を知り悲しみます。
この時に黄蓋が捕らえた黄祖と孫堅の遺骸を交換する案を出し、孫策は劉表と交渉を行い黄祖と孫堅の遺体を交換しました。
三國志演義には史実にはない黄蓋の活躍が記録されているわけです。
赤壁の戦いの主戦派
赤壁の戦いの時に、呉軍の主戦派と言えば魯粛と周瑜くらいだと思うかも知れません。
しかし、黄蓋も主戦派となっています。
諸葛亮が孫権の元にやって来ると、諸葛亮は張昭や虞翻ら呉の文官を次々に論破しました。
呉の駱統が諸葛亮と舌戦を行いますが、この時に黄蓋が部屋に入ってきます。
黄蓋は呉の文官らに、次の様に述べています。
黄蓋「諸葛亮殿は、真に天下の奇才である。諸君らが、それを難じ合うのは、客への敬意を失するものである。
曹操の大軍が国境まで押し寄せて来ているのに、敵を討ち退ける事を後にして、口先ばかりで争うのは問題である。」
さらに、諸葛亮に対しては、黄蓋は次の様に述べています。
黄蓋「『多言にして利を獲ようとするよりも、黙して言なきにしかず』とも言われています。
ご高論は、我が主君である孫権様に言えばいいのに、この者達と争論するのは、如何なものかと思うが。」
黄蓋の対応は、まさに武人と言った感じでもあります。
黄蓋は諸葛亮に速やかに孫権と面会する様に述べ、諸葛亮を奥に通しています。
三國志演義では魯粛や周瑜など呉の群臣は史実に比べると大幅に評価を下げられているにも関わらず、黄蓋だけはかなり良い役回りだとも言えるでしょう。
苦肉の策
三國志演義だと周瑜と黄蓋が苦肉の策を行い、黄蓋が周瑜に鞭を討たれるシーンがあります。
黄蓋は鞭を打たれてボロボロになりますが、呂蒙が周瑜を止めた事で、諸将も周瑜を説得しました。
その様子を曹操に内通している蔡中、蔡和が見ており、闞沢が曹操の元に行き黄蓋が降伏すると弁舌を振るいます。
闞沢の説得も功を奏し、曹操は黄蓋の降伏を真実だと考える様になりました。
苦肉の策が成功した事で、呉では赤壁の戦いの勝利へ大きく前進する事になります。
さらに、赤壁の戦いでは、火計を成功させて曹操を追撃しますが、黄蓋は張遼の矢を受けて負傷し、水中に落ちてしまいます。
黄蓋は落水しますが、正史三国志と同様に韓当に助けられる事になります。
黄蓋の評価
黄蓋はイメージ的には「赤壁の戦い」の大功労者と言ったイメージが強いです。
しかし、実際の黄蓋は各地で異民族の平定を行った、異民族討伐のプロといった印象です。
孫権も山越族が反旗を翻すと黄蓋を長官として派遣し、異民族を慰撫していた様にも思えます。
「黄蓋=赤壁」のイメージが強いですが、むしり黄蓋が評価されるべきは、異民族討伐にあった様に思います。
黄蓋は孫家三代を支えた武将だと言えるでしょう。
参考文献:ちくま学芸文庫 正史三国志6,7巻
コーエーテクモゲームスの三国志
三国志14 | 統率80 | 武力83 | 知力68 | 政治65 | 魅力81 |
三国志14での能力値は武力系が80を超えるなど、史実に黄蓋に近い能力値になっていると思います。
初代三國志から黄蓋の能力値は、それほど上下がないとも言えるでしょう。
因みに、コーエーテクモゲームズさんでは三国無双なるゲームがあり、黄蓋が「黄蓋バスター」なる技を行っています。
下記はユーチューブの動画ですが、黄蓋が黄蓋バスターで女性キャラを仕留めている姿となります。
黄蓋の「年の功」なども言葉も、黄蓋をよく現わしている様に思いました。