
| 名前 | 韓の哀侯 |
| 姓・諱 | 韓屯蒙 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前374年 |
| 在位 | 紀元前377年ー紀元前374年 |
| 時代 | 戦国時代 |
| 一族 | 父:文侯 子:懿侯 |
| 年表 | 紀元前375年 鄭を滅ぼす |
| コメント | 鄭を滅ぼすも韓厳に誅された |
韓の哀侯の時代に韓の念願でもあった鄭を滅ぼし、そのまま新鄭に遷都しました。
魏の武侯も晋の孝公に働きかけ、韓の新鄭の領有を認めさせています。
韓の悲願でもあった鄭の攻略を成し遂げた韓の哀侯ですが、韓厳に誅され世を去りました。
韓の哀侯は在位期間は短いですが、鄭を滅ぼした功績があります。
韓の哀侯の即位
韓の哀侯は韓の文侯が亡くなると即位しました。
韓の文侯の時代から楚の北上があり、韓は魏に接近しており、魏に親しむのは韓の哀侯の時代になっても継続されました。
史記の韓世家には韓の哀侯の元年(紀元前376年)に趙・魏と共に晋国を分割したとする記述があります。
晋の国土を分割したと言えば、晋の滅亡を指すようにも感じますが、実際にはまだ晋は継続しており、韓世家の記述がおかしいとも考えられています。
鄭を滅ぼす
史記の韓世家によると、韓の哀侯の2年(紀元前375年)に韓が鄭を滅ぼし、新鄭に遷都したとあります。
韓の哀侯の時代に悲願でもあった鄭を滅ぼす事に成功したわけです。
新鄭は鄭の首都だった場所ですが、韓の哀侯は交通の要衝でもある新鄭に遷都したのでしょう。
尚、韓が鄭を滅ぼすのに、魏の支援も大きかったと考えられています。
竹書紀年によると、魏の武侯は晋の孝公に働きかけ、韓の鄭の領有を認証させたとあります。
晋の孝公により韓の哀侯は新鄭の領有を認められたと同時に、晋の公室の権威がまだ生きているのが分かる話でもあります。
韓の哀侯の最後
紀元前374年に韓の哀侯は新鄭の領有を認められましたが、史記の韓世家に次の記述があります。
※史記 韓世家より
韓の哀侯の3年、韓厳が主君の哀侯を誅した。
この記述から、韓の哀侯が韓厳により命を落とした事が分かるはずです。
紀元前374年に韓の哀侯は世を去りました。
史記によると韓の哀侯の子である韓の懿侯が後継者として立ったとあります。
韓の哀侯を誅した韓厳(韓山堅)は宗族だとされていますが、自ら立たず韓の懿侯を擁立しました。
韓厳が韓の哀侯を誅した理由はよく分かっていません。
それでも、韓の哀侯を支持する者も多かった様であり、韓は分裂の危機に瀕したとも考えられています。
| 先代:文侯 | 哀侯 | 次代:懿侯 |