名前 | 吉良貞義 |
生没年 | 生年不明ー1343年 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
一族 | 父:吉良満氏、吉良長氏(養父) |
兄弟:貞氏、荒川貞弘、北条時国の正室 | |
子:満義、助時 | |
コメント | 足利一門の長老格 |
吉良貞義は吉良満氏の子で、足利一門でもあります。
吉良氏の家格は足利一門の中でも極めて高く、斯波氏をも凌駕する程です。
元寇の時には父親の吉良満氏が足利一門の中で唯一守護となっており、北条氏とも密接に関わっていました。
しかし、元弘の変では足利尊氏に朝廷方に寝返る様に進言しており、これにより鎌倉幕府が滅亡しました。
吉良貞義は南北朝時代が始まると室町幕府に属する武将として戦い、細川皇海と連携し南朝の忽那氏と戦うなどしています。
吉良貞義と足利尊氏
鎌倉時代末期に後醍醐天皇は隠岐に流されますが、護良親王と楠木正成は倒幕を継続しました。
楠木正成は幕府軍を手こずらせますが、鎌倉幕府は名越高家と足利尊氏に討伐に向かわせる事になります。
しかし、名越高家は赤松円心により呆気なく討ち取られました。
難太平記によると、足利尊氏は真っ先に吉良貞義に相談したと言います。
足利尊氏が倒幕に舵を切ろうとし相談すると吉良貞義は「むしろ遅いと思っていた。大変喜ばしい事だ」と答えました。
難太平記の記述が正しければ、吉良貞義も倒幕を考えていた事になるでしょう。
吉良氏は北条氏と密接に関わっていましたが、何が原因で倒幕を志向する様になったのかは不明です。
ただし、吉良氏は足利一門の中でも極めて家格が高く、既に吉良貞義も高齢であった事から、足利尊氏も長老の吉良貞義の賛同を得られなければ、事は成就しないと思ったのでしょう。
南北朝武将列伝北朝編の中で谷口雄太氏も「足利高氏(尊氏)に対し、物申せる人物であり、最初に相談すべき相手だった」と述べています。
ただし、難太平記を書いた今川了俊の今川氏は吉良氏の庶子の家柄であり、倒幕の功績を吉良氏に加算させる為に、書いたのではないかともされています。
梅松論には足利尊氏を説得したのは、細川和氏や上杉重能になっています。
足利尊氏は六波羅探題を攻撃し崩壊させ、関東では新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしました。
鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、吉良貞義は加賀国能美荘の知行を保証されています。
建武の乱
九州にも同道
足利尊氏は中先代の乱を機に建武政権から離脱しました。
吉良貞義は今川氏や天野氏の軍を率いて、近江国勢多を攻撃しています。
この時に、一族の吉良貞家は東海道の守を固めました。
近畿での戦いでは足利尊氏は奮戦するも、新田義貞、楠木正成、北畠顕家らに敗れて九州に落ち延びています。
足利尊氏の九州行きに吉良貞義も同行する事になります。
少弐頼尚に迎え入れられた足利尊氏は多々良浜の戦いで勝利しました。
足利尊氏は短い期間ではありますが、九州に滞在しており、この時に吉良貞義が進上した剣を箱崎八幡宮に寄進しています。
吉良貞義は筑前の所領経営を行うなどしました。
京都に進軍
足利尊氏の上洛戦争が始まると、吉良貞義も行動を共にしています。
足利軍は大軍で湊川の戦いで朝廷軍を破り、京都に軍を進めました。
京都の手前にある石清水八幡宮を占拠しますが、足利尊氏と共に吉良貞義も八幡宮にいた事が分かっています。
この時に吉良貞義は加賀国能美荘を八幡宮に寄進しました。
足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立し、建武式目を制定し室町幕府が始まる事になります。
後醍醐天皇とも和議が成立しますが、後に後醍醐天皇は京都を出て吉野に向かい南北朝時代が始まりました。
忽那氏を攻撃
南朝の重臣である四条隆資は紀伊に移動しました。
紀伊は伊予の忽那氏と海路で繋がっていました。
忽那氏の動きに対応する為か、吉良貞義は代官を派遣し攻撃しています。
これが建武四年(1337年)の事であり、吉良貞義は四国の細川皇海と連携するなどしました。
四条隆資とは細川顕氏も摂津で交戦するなどしており、近畿、紀伊、四国で戦いが継続していた事も分かるはずです。
吉良貞義の最後
吉良貞義は1338年に吉良荘内の所領を今川氏に与えた事が分かっています。
これらの事から、1338年までには吉良貞義は三河に戻っていたと考えられています。
吉良氏は多くの所領を持っており、吉良貞義は遠隔地の所領支配を行ったり、寺社との友好に務めたとされています。
足利一門の長老として高い存在感を持った吉良貞義ですが、康永二年(1343年)に最後を迎えました。
既に子の吉良満義は幕政に参加しており、吉良氏は後に足利御三家の筆頭格に選ばれています。