名前 | 壺叔(こしゅく) |
生没年 | 不明 |
時代 | 春秋時代 |
主君 | 重耳 |
コメント | 重耳の亡命に従った賊臣 |
壺叔は史記の晋世家に登場する人物です。
重耳は晋に帰国すると、功臣を褒賞しますが、賊臣である壺叔は、なかなか褒賞されなかったわけです。
壺叔が不振に思い、重耳に聞きますが、重耳が人を賞する場合の順序を述べ、それが理由で壺叔まで褒賞が回って来ないと説明しました。
重耳と壺叔の話は、重耳の臣下に対する評価の仕方も表していると言えるでしょう。
今回は壺叔を解説します。
恩賞を貰えない壺叔
壺叔は重耳の亡命に付き従い、晋に戻った話があります。
晋世家に重耳の亡命には趙衰、狐偃、賈佗、先軫、魏犨ら5人の賢士と無名の士が数人付き従ったとあります。
この無名の士の中に壺叔や介子推が入っているのでしょう。
重耳は秦の穆公の後押しもあり、晋の懐公を打倒し、晋の文公として即位しました。
重耳は晋の君主となりますが、壺叔は恩賞を貰う事が出来ず、次の様に重耳に問い質します。
壺叔「我が君(重耳)は論功行賞を三度も行いました。
しかし、褒賞が私の所まで行き届いておりません。
私に罪があるというのであれば、罰して頂きたく存じます」
壺叔は褒賞が貰えない事に対し、重耳に対し不満だったのでしょう。
自ら「罪があるなら罰して欲しい」と述べている事から、壺叔は自分が重耳の亡命において役立ったとする自負もあったはずです。
重耳の恩賞基準
壺叔に聞かれた重耳ですが、次の様に答えています。
重耳「儂を仁義を以て導き護り、徳恵があった者が最上位の恩賞を受ける。
行動を以て儂を助け、成果を上げたものが、次の褒賞を受ける。
矢石の難を犯し、汗馬の労に励んだものが、さらに次の賞を受ける。
腕力により儂を助け、儂の欠点を補う事が出来なかった者が、その次の褒賞を得るのである。
其方(壺叔)の事は忘れていたわけではない。
三度の褒賞が終わった後は、其方も賞しようと考えていたのである」
重耳は恩賞を与える順番が明確になっており、壺叔に説明したわけです。
晋の人々は重耳の言葉を聞くと、皆が喜んだとあります。
名君の条件として「信賞必罰」というものがありますが、重耳は見事に基準が出来ていたと言えるでしょう。
尚、重耳の言葉から壺叔が「腕力を以って重耳に仕えたが、重耳の欠点を補う事が出来なかった者」として評価されている事も分かります。
重耳の言葉から考えると、4回目の論功行賞で壺叔も褒賞されたのでしょう。
因みに、重耳は城濮の戦いで楚の子玉を破り、春秋五覇の一人に数えられるまでにもなっています。
しかし、城濮の戦いは先軫の策を用いて勝利しましたが、晋の文公は恩賞を与える段階になると、信義を失ってはならないと説いた狐偃を最上位としました。
壺叔の話にも出て来たように、徳を以って補佐した者が最上位の褒賞を受けるというのは、城濮の戦い後の論功行賞にも顕れています。