春秋戦国時代

負芻(ふすう)は最後の楚王

2022年7月30日

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名前負芻(ふすう) 正式名称:熊負芻
生没年不明
勢力
在位西暦228-223年
年表224年 蘄の戦い
コメント最後の楚王

負芻は春秋戦国時代最末期の、楚王であり、最後の楚王とも言われています。

楚国は歴史が長く、西周王朝時代から国が続いていましたが、負芻の代で最後を迎えています。

最後の楚王と言えば昌平君ではないのか?と思うかも知れません。

昌平君が項燕に擁立され楚王となった話は、史記の始皇本紀にあり、楚の歴史を書き綴った楚世家には記録されていない状態です。

その為、昌平君が楚王になったのは、あくまでも伝説であり、本当の最後の楚王は負芻だったとも考えられています。

尚、負芻が楚王になった経緯を見ると、楚のまとまりの悪さが目立つ様に感じました。

孝烈王の子

史記の楚世家によれば、負芻は楚の哀王の庶兄だと記載があります。

つまり、負芻は楚の孝烈王の庶子だった事になります。

負芻が庶子だとすれば、負芻の母親は、それほど身分が高い女性では無かったのでしょう。

楚の孝烈王は春申君が紹介した李園の妹であり、李環の子を後継者としました。

これが楚の幽王となり、春申君を暗殺した李園が外戚として権力を握る事となります。

楚の幽王が亡くなると、弟の楚の哀王が楚王に即位しました。

楚の哀王も李環の子だった様で、李園が楚の実権を握る所を見た負芻は、苦々しく思っていたのでしょう。

勿論、負芻に同調してくれる楚の貴族たちもいたはずです。

楚王となる

楚の哀王が即位して、二カ月程が経過すると、史記の楚世家によれば、次の記述が存在します。

※史記 楚世家より

楚の哀王の庶兄・負芻の一味が哀王を襲撃し殺害した。

負芻を立てて楚王とした。

これを見ると分かる様に、負芻は楚の哀王を殺害して、楚王になったわけです。

楚の哀王の母親は李環ですが、兄の楚の幽王は孝烈王の子ではなく、春申君の子だったとする話もあり、楚の内部では李園や李環に対する不満もくすぶっていたのでしょう。

李園に冷遇されていた貴族たちの受け皿が、負芻であり、求心力を得た負芻が楚の哀王を襲撃したとも言えます。

負芻は楚王となりますが、これが紀元前228年の事であり、楚が滅亡する5年ほど前となります。

この頃には、戦国七雄の韓が内史騰により滅亡し、趙も同年に李牧郭開韓倉、春平君の讒言により殺害され、趙の幽穆王も捕虜となり、趙嘉は代に逃れました。

戦国七雄の時代が終わり、の統一が迫っている時代でもあったわけです。

こうした中で、負芻が楚王になるのは、国内の纏まりの悪さだとも言えます。

共通の敵が出来れば一致団結して立ち向かうはずですが、そうした事もなく政争に明け暮れていたのが、楚なのかも知れません。

しかし、楚王負芻が即位して2年目には、秦が楚を討ち、楚が戦いに敗れ十余城を失うなど、楚も秦による危機が迫って来たわけです。

楚の滅亡

秦王の嬴政は魏を滅ぼし、楚に攻撃を仕掛けてきますが、負芻は項燕を将軍に任じ、一度は秦の李信蒙恬を破り退けました。

しかし、西暦224年の蘄の戦いで、項燕が王翦蒙武に敗れると、楚は秦に対する抵抗力を失ってしまいます。

史記によれば、次の様に記述されています。

史記 楚世家より

楚王負芻の五年。秦の将軍・王翦と蒙武が、ついに楚国を打倒した。

楚王負芻を虜にし、楚を滅ぼし郡とした。

上記の記述を以って、楚世家が終わりとなります。

先にも述べた様に、楚世家に昌平君が楚王になったり、項燕と共に秦に対し反旗を翻した記述はありません。

負芻ですが、降伏してからは、どの様な処遇を受けたのかは不明です。

ただし、始皇帝は韓で貴族たちが反乱を起こした事で、韓王安は殺害しましたが、趙の幽穆王、魏王仮、燕王喜、斉王建など六国の王を殺害した記述がありません。

それを考えると、負芻は捕虜となり幽閉されただけで、命までは取られなかった様に思います。

秦末期になると楚国が建国されますが、ここから先の楚国は義帝はいましたが、中心は楚の項梁項羽であり、楚の王室に権力が戻る事はありませんでした。

この頃には、負芻も亡くなっていた事でしょう。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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