父親の皇甫嵩は黄巾の乱で最も活躍した将軍であり、名将と呼んでも差し支えない人物と言えます。
しかし、皇甫嵩と董卓は陳倉で戦った時に、仲違いを起こしてしまいます。
後に董卓は何進死後に権力を握ると、皇甫嵩を殺害しようと考えました。
この時に皇甫堅寿は父親の皇甫嵩を救う為に、駆け付け董卓を責めた事で皇甫嵩は解放されています。
皇甫堅寿の記録は少ないですが、激情的な性格で烈士と呼んでもよいと感じました。
今回は皇甫嵩の子である皇甫堅寿を解説します。
尚、皇甫堅寿の名前に関しては皇甫堅と皇甫寿の二名を指すのではないか?とする場合もあれば、皇甫堅寿が名前だとも考えられています。
王莽が二名の禁を行った事で、三国志の時代は極端に二文字が少ないと言えます。
それらを考慮して、皇甫堅と皇甫寿の二名の事ではないか?と考えたのでしょう。
しかし、一般的には「堅寿」が名だと考えられています。
それでも、堅寿は名前ではなく字ではないか?とも言われており、正確な部分は記録があるわけではなく不明です。
父親の苦難に駆け付ける
皇甫堅寿は皇甫嵩の子ですが、具体的な戦功に関しては分かっていません。
父親の皇甫嵩は董卓と共に陳倉で王国と戦いますが、この時に皇甫堅寿も同行していた可能性はあるでしょう。
しかし、王国討伐で皇甫嵩と董卓は意見の違いから、董卓は皇甫嵩を一方的に恨む結果となります。
皇甫嵩は董卓に恨まれており、一族の皇甫酈は皇甫嵩に董卓を権限を使って処分する様に進言した事もあります。
それでいて、何故か皇甫堅寿と董卓は親密な関係を築く事になります。
霊帝が189年に崩御すると、何進が宦官に暗殺され董卓が実権を握りました。
董卓は皇甫嵩を恨んでいた事から、城門校尉に任命すると呼び出し、皇甫嵩を捕えて処刑しようと考えます。
皇甫嵩は梁衍に「関東の袁紹と組んで挟み撃ちにするべき」と進言されました。
しかし、皇甫嵩は董卓の元に出頭し、捕らえられてしまったわけです。
父親の皇甫嵩が捕らえられた時に、皇甫堅寿は長安にいましたが、慌てて洛陽に向かいました。
皇甫堅寿は「父親を助ける事が出来るのは自分だけ」と思ったのでしょう。
父を救う
皇甫堅寿は董卓に面会を求めました。
この時の董卓は酒宴を開くときだったと伝わっています。
皇甫堅寿は董卓の前に進み出ると、大義により董卓を責め、叩頭して涙を流したわけです。
皇甫堅寿の言葉がよっぽど実直で誠意を感じたのか、周りの者達が皇甫堅寿の皇甫嵩の罪を許す様に請います。
董卓も感じ入る部分があったのか、皇甫堅寿の手を取り、共に座り皇甫嵩の拘束を解きました。
董卓も仲が良かった皇甫堅寿の言葉や周りの意見もあり、皇甫嵩を許したのでしょう。
皇甫嵩はかなりの優等生で真面目な性格をしており、そもそも罪を犯してもいなかったはずです。
董卓しても周りが許す様に進言している以上は、皇甫堅寿の意見に従うしかなかったのかも知れません。
董卓が皇甫堅寿の言葉に従い皇甫嵩を許した理由ですが、皇甫氏は名士であり、仲良くしておきたかった部分もあったのでしょう。
尚、皇甫堅寿には名声があり、侍中に任命されますが、官職を辞して後に病死した話があります。
父親の皇甫嵩は李傕の時代まで生きた記録がありますが、皇甫堅寿がいつ亡くなったのかは不明です。