三国志 後漢

皇甫嵩は後漢末期の最高峰の将軍

2023年1月14日

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宮下悠史

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名前皇甫嵩(こうほすう) 字:義真
生没年生年不明ー195年??
時代後漢末期、三国志
一族父:皇甫節 子:皇甫堅寿 甥:皇甫酈 娘婿:射援
年表184年 黄巾の乱
192年 車騎将軍、大尉となる
画像©コーエーテクモゲームス

皇甫嵩の字は義真であり、涼州安定郡朝那県の出身です。

皇甫嵩は後漢書に伝があり、同じく黄巾の乱で活躍した朱儁と共に語られおり、正史三国志にも名前が登場します。

皇甫嵩が朱儁や盧植と共に、黄巾の乱で大活躍したのは有名であり、張角の本隊とも戦っています。

黄巾の乱で最も活躍したのが、皇甫嵩であり、後漢王朝の後期で考えれば、最高峰の武将の一人だと言えるでしょう。

皇甫嵩は軍事能力が高いだけではなく、民衆の為の政治を行った話もあります。

皇甫嵩は文武両道の名臣であり、後漢王朝の為に尽くし命令を忠実に遂行しました。

後漢王朝にとって名門の子弟で、野望もなく良き臣下というのが皇甫嵩です。

尚、宮城谷昌光さんが描いた三国志名臣列伝の後漢編で、名臣の一人として皇甫嵩の名前を挙げています。

若き日の皇甫嵩

皇甫嵩の曾祖父の皇甫棱は度遼将軍を務め、祖父の皇甫旗は扶風都尉、父の皇甫節は雁門太守となり、皇甫嵩の家は代々に渡り名門の家柄でした。

さらに叔父の皇甫規は有能さが認められ、張奐や段熲と共に涼州三明の一人に選ばれています。

皇甫嵩は間違いなく名士だと言えるでしょう。

名門出身の皇甫嵩は若い時から、文武に志を持ち、詩経や書経、弓馬の道に励んだ話があります。

同じく黄巾の乱で活躍した朱儁の、母親が商いをして生計を立てていたのとは対照的に、皇甫嵩の家は権勢があったと言えるでしょう。

皇甫嵩は成人になると孝廉に推挙され、郎中となり覇陵や臨汾の県令を務めました。

しかし、父親が亡くなった事で、皇甫嵩は喪に服す為に、官を辞する事になります。

霊帝の公用車

皇甫嵩は喪が明けると、今度は茂才に推挙され大尉の陳蕃や、大将軍の竇武の招聘を受けます。

しかし、皇甫嵩は陳蕃や竇武の招きを固辞し、仕官する事はありませんでした。

当時は前皇帝の桓帝が外戚の力を排除する為に、宦官を重用し大きな力を持った時代だったわけです。

宦官が権力を持ち政治に干渉するのを嫌い、皇甫嵩は仕官しなかったと考えられています。

名士層が排除された党錮の禁などもあり、皇甫嵩は官に就くのをためらったのでしょう。

しかし、霊帝が公用車を皇甫嵩に送り招聘すると、断る事が出来ず入朝し義郎となりました。

霊帝自ら公用車を派遣して仕官を依頼されれば、皇甫嵩も断るわけにはいかなかったはずです。

皇甫嵩は義郎から北地郡の太守となります。

黄巾の乱

皇甫嵩の進言

太平道の教祖である張角が数十万もの信徒を集めていました。

こうした中で都洛陽では黄巾賊の馬元義が捕まり、張角が後漢王朝の転覆を狙っている事が知れ渡ります。

張角は挙兵の時期を早めて、後漢王朝に反旗を翻しました。

これが黄巾の乱です。

後漢王朝では黄巾賊に対処する為に防備を固め、会議を開きますが、ここで皇甫嵩が意見を述べる事となります。

皇甫嵩は宦官との政争に敗れた有能な人材を解放し、国庫の銭と馬を放出し、軍備を充実させる様に進言しました。

霊帝は皇甫嵩の意見を採用し、朝廷の中央軍と合わせて四万の兵を得る事に成功します。

朝廷では皇甫嵩と朱儁を将軍にして、黄巾の乱を鎮圧させるべく動きました。

尚、皇甫嵩の進言により党錮の禁が解除された事で、劉表など逃亡していた者が復職できるようになったわけです。

快進撃

皇甫嵩は朱儁と共に潁川方面の黄巾賊を討伐する為に動きますが、先発部隊の朱儁が黄巾賊の波才と戦い敗れました。

朱儁は名将と言ってもよい人物ですが、後漢王朝にとっては幸先悪いスタートだったと言えます。

皇甫嵩は朱儁が敗れた事を知ると長社の城に籠城し、波才が城を包囲した事で長社の戦いが勃発しました。

皇甫嵩の部下の将兵は恐怖しますが、ここで皇甫嵩は落ち着いて軍吏に作戦を説明し、田単の功績を立てる事が出来ると述べています。

皇甫嵩は自らが立てた作戦に従い、火計を使って黄巾賊を倒すべく動きました。

皇甫嵩は何重にも策を練り、黄巾賊を襲撃し火計で波才の軍に攻撃を仕掛ける事となります。

ここに霊帝が派遣した曹操や朱儁も加わり、数万もの首を斬る大戦果を挙げました。

皇甫嵩は自ら立案した作戦を完璧にこなし、部下達から多いに信頼を得た事でしょう。

皇甫嵩と朱儁は勝ちに乗じて進軍を続け、汝南郡や陳郡の黄巾賊を全て打ち破りました。

皇甫嵩らは西華の黄巾賊である彭脱も、打ち破る事に成功します。

さらに皇甫嵩は倉亭で黄巾賊を再び撃破し、7千もの首をあげました。

この時の皇甫嵩は連戦連勝で「向かう所敵なし」といった状態だったはずです。

尚、皇甫嵩は手柄を朱儁に譲った話があり、皇甫嵩の人格者ぶりがよく表れています。

張梁・張宝を討つ

盧植は張角の本隊と戦いますが、何度も張角の軍を破り優勢に戦いを進めていました。

しかし、盧植は様子を見に来た宦官の左豊に賄賂を渡さなかった事で、官職を剥奪され戦場を後にする事となります。

盧植の後任として黄巾賊と戦ったのが董卓であり、董卓も戦果を挙げる事が出来ませんでした。

皇甫嵩が黄巾賊の主力部隊と戦う事となり、張角の弟の張梁と広宗で戦いました。

広宗の戦いで皇甫嵩は苦戦しますが、皇甫嵩は長期戦の構えを見せるかの如く兵を休養させ、自身は張梁の軍を観察しています。

皇甫嵩は敵軍を攻撃すると大破し、張梁の首を斬る大戦果を挙げます。

この時に既に張角は病死していた事で、皇甫嵩は張角の墓を暴き首を斬り洛陽に送りました。

張角のもう一人の弟である張宝も皇甫嵩が下曲陽の戦いで破ります。

これにより黄巾の乱は終結しました。

皇甫嵩の手柄が最も大きかったと言えるでしょう。

手柄を人に譲る

黄巾の乱の最大の立役者は皇甫嵩でしたが、皇甫嵩は潁川での勝利は全て朱儁に譲り、鉅鹿での功績は盧植に譲りました。

皇甫嵩は広宗の戦いは、盧植の準備が万全だったから、敵を打ち破る事が出来たと上奏したわけです。

皇甫嵩の計らいにより、朱儁は緒戦で敗れた罪が帳消しとなり、盧植は名誉を回復し、再び仕官が許されたわけです。

皇甫嵩の計らいにより盧植などは、かなり救われた事は間違いないでしょう。

皇甫嵩は用兵が上手く有能なだけではなく、人間性も優れた人物だと言う事が分かります。

皇甫嵩は手柄を朱儁や盧植に譲りますが、誰が見ても黄巾の乱で、最も手柄を立てたのは皇甫嵩だという事は明らかでした。

皇甫嵩は黄巾の乱の鎮圧の功績として、槐里侯に封じられ8千戸の食邑が与えられ、左車騎将軍・冀州牧となります。

民を救う

冀州牧となった皇甫嵩は、上奏して冀州の年貢を1年間免除し、棄民を救う様に請いました。

皇甫嵩は各地を転戦しており、民の様子もよく分かっていたのでしょう。

皇甫嵩の行動が民衆に喜ばれた事は言うまでもなく、民衆は次の様に述べた話があります。

天下は多いに乱れ、市場は廃墟となった。

母は子を育てる事も出来ず、妻は夫を失った。

しかし、皇甫様(皇甫嵩)を頼れば、また安心して暮らす事が出来る。

皇甫嵩は冀州で善政を行ったと言えるでしょう。

皇甫嵩が如何に民から愛されていたのかが分かります。

人心掌握術

皇甫嵩は民衆だけではなく兵にも温情を以って接し、人望を得た話があります。

皇甫嵩は軍中で野営を行う時は、末端の兵の陣幕が出来てから入り、食事を摂るにも、全ての兵士が食べ終わってから食べました。

皇甫嵩は普段から部下の面倒をよくみた事で、兵達も皇甫嵩の為によく働いたのでしょう。

こうした話は戦国時代に活躍した呉起にも似たような話があり、皇甫嵩は古の武将の風格があったとも言えます。

皇甫嵩の部下の軍吏で賄賂を受け取る者がいましたが、皇甫嵩は罰しませんでした。

皇甫嵩は賄賂を受け取ったのは、支給が不足したからだと述べ、必要な金額を改めて与えた話があります。

部下達は多いに恥じて「皇甫嵩将軍に恥を掻かせた」と悔い、自害する者まで出たとされています。

皇甫嵩は部下達から信望を得ますが、後漢王朝の朝廷は行き詰まりを見せます。

ここで閻忠が皇甫嵩に劉邦に仕えた韓信を例に出し、大事を起こす様に進言しますが、皇甫嵩が聞き入れる事はありませんでした。

皇甫嵩に野望はなかったのでしょう。

尚、閻忠は当時無名だった賈詡を、張良陳平に匹敵すると、才能を見抜いた人物でもあります。

張譲・趙忠に讒言される

西の辺境地帯である隴右で、辺章と韓遂が反旗を翻しました。

ここで皇甫嵩に詔勅がくだり長安に駐屯し、園陵を守備する事となります。

辺章が三輔に進軍すると、皇甫嵩は討伐に向かいました。

ここで問題が発生します。

黄巾の乱の時に宦官の趙忠の屋敷が、規定に反しているのを見つけた皇甫嵩は、上奏し没収させた事があったわけです。

さらに、皇甫嵩は宦官の張譲が賄賂として銭五千万を要求した時も、要求に応じなかった話があります。

張譲や趙忠は霊帝に「我が父、我が母」と呼ばれ信任を得ていましたが、皇甫嵩を恨んでいました。

張譲や趙忠「皇甫嵩は功績がなく物資を無駄に使っている」と讒言しています。

張譲や趙忠の言葉を信じた霊帝により、皇甫嵩は更迭され、左車騎将軍の位を剥奪され、八千戸の食邑は二千戸となり、都郷侯に格下げされました。

過去に盧植の怖さを知った様に、皇甫嵩も身をもって宦官の怖さを知ったはずです。

尚、皇甫嵩を讒言した趙忠は、186年に張温の後任として、車騎将軍となりました。

余談ですが、袁紹に冀州を譲った韓馥が、趙忠の屋敷に引き籠った話があります。

この韓馥は冀州牧であり、皇甫嵩は冀州で戦っていた事から、皇甫嵩が上奏し没収した趙忠の屋敷に韓馥はいたのかも知れません。

王国を大破

涼州の馬騰、韓遂、王国が反旗を翻し、涼州刺史の耿鄙と漢陽太守の傅燮を殺害しました。

これにより長安が危機となり、王国は陳倉を包囲します。

王国の軍は数が多く大兵を以って、涼州や益州の郡県を荒しまわる事となります。

ここで朝廷では皇甫嵩を将軍に復帰させ、前将軍の董卓と共に鎮圧に向かいました。

皇甫嵩は左将軍に任命されています。

皇甫嵩と董卓は陳倉に向かいますが、董卓は「素早く移動し陳倉を救うべき」と進言しています。

しかし、皇甫嵩は董卓の進言を却下し、次の様に述べています。

皇甫嵩「百戦して百勝しても戦わずに勝つのには及ばない。

兵法によれば攻撃側に九天の勢いがなければ、城は落ちないと聞いている。

王国の損害は大きく、陳倉の守は固い。

我らは労せずに勝てるから、急いで救う必要はない」

皇甫嵩の見立ては的中し、王国は陳倉を攻め続けますが、落とす事は出来ませんでした。

王国の軍は疲弊し撤退を開始すると、皇甫嵩は追撃しようとします。

ここで董卓は兵法を持ち出し「窮した敵に迫ってはならず、帰る兵を追ってはならない」と述べ、皇甫嵩の追撃に反対しました。

しかし、皇甫嵩は別の考えを持っており「王国の兵は帰ろうとするのではなく、疲労が溜まっている兵で闘志もない」と言い、追撃を実行しています。

董卓に後方を任せて皇甫嵩が追撃に移ると、皇甫嵩は王国の軍を大破し、1万以上を討ち取る大戦果を挙げています。

皇甫嵩は王国の軍を多いに破る事にはなりましたが、董卓の面目を潰してしまう結果となり、董卓は皇甫嵩を恨みました。

董卓の逆恨み

189年になると朝廷は董卓を并州牧に任命し、指揮下の兵を皇甫嵩に明け渡す様に命じ、入朝を促しました。

しかし、董卓は朝廷の命令に従わず、兵を保持し続けています。

董卓が兵を皇甫嵩に明け渡さないのを見た甥の皇甫酈は、「殿(皇甫嵩)と董卓は仲違いしている」と述べ、董卓を討ち害悪を取り払う様に進言しています。

皇甫嵩は「勝手に董卓を罰するのはよくない」とし、朝廷に裁きを任せると述べ、皇甫酈の意見を却下しました。

皇甫嵩は事情を朝廷に説明すると、朝廷の方では董卓を譴責し、董卓はさらに皇甫嵩を恨む結果となります。

この辺りは、皇甫嵩の真面目過ぎる性格がよく表れていると感じました。

尚、董卓が皇甫嵩を恨むのは逆恨みとなるはずです。

董卓政権

董卓の誘い

霊帝が崩御すると少帝が後継者となりますが、大将軍の何進が殺害され董卓が実権を握りました。

皇甫嵩を恨んでいる董卓が運悪く実権を握ってしまったわけです。

董卓は皇甫嵩を殺害しようと画策します。

董卓は皇甫嵩を城門校尉にすると言って招きますが、長史の梁衍が諫めました。

梁衍は皇甫嵩の身を案じ、袁紹と共に東西から董卓を挟み撃ちにする様に意見しています。

皇甫嵩は梁衍の意見に従う事は無く、董卓の元に向かうと捕らえられてしまいました。

皇甫嵩の命は風前の灯となってしまったわけです。

しかし、皇甫嵩の子である皇甫堅寿は董卓と仲が良く、長安から洛陽に駆け付け、進み出て涙を流し父親を処刑しようとする董卓を責めました。

皇甫堅寿の言葉を聞いた者達は、皆が皇甫嵩の助命を請うた事で、董卓も感じる所があり、皇甫嵩を許しています。

皇甫嵩は釈放され義郎となり、御史中丞に転任しました。

皇甫嵩が処刑されなかったのは皇甫堅寿の言葉だけではなく、後漢王朝の功臣で特に罪を犯してはいなかった事が原因だと感じています。

それと同時に董卓は袁紹、袁術の出である汝南袁氏の袁隗や周毖など、殺害した者が多く皇甫嵩も一歩間違えれば、処刑されていた事でしょう。

董卓を出迎える皇甫嵩

反董卓連合と董卓の戦いは徐栄曹操孫堅を破りますが、胡軫が敗れ華雄が討死するなどもあり、董卓は長安に遷都しました。

董卓は献帝を擁立しており、少帝と何太后は李儒に毒殺させています。

尚、朱儁が董卓の長安遷都に反対した話がありますが、皇甫嵩が董卓に対し長安遷都を諫めた話はありません。

董卓が長安に入る時に、公卿百官に自分を出迎える様に命じ、御史中丞以下は拝礼する様に命じました。

皇甫嵩は御史中丞であり、皇甫嵩は董卓に頭を下げる必要が出て来たわけです。

董卓は皇甫嵩を見つけると「義真(皇甫嵩の字)まだ服さぬか」と述べ、皇甫嵩は笑って「貴方がここまで出世するとは思いませんでした」と述べます。

さらに董卓は「鴻鵠は遠大な志を持っていたが、燕雀が知らなかっただけさ」と返すと、皇甫嵩も次の様に返しました。

皇甫嵩「いえ昔は私も明公も共に鴻鵠でしたが、今になって明公は鳳凰になったのです」

皇甫嵩は気の利いたセリフを述べ、董卓は皇甫嵩とのわだかまりを解きました。

尚、董卓と皇甫嵩の鴻鵠の志の話は、末期の陳勝の話を故事としたのでしょう。

皇甫嵩は董卓に完全に屈服した形をとりましたが、董卓にとっては功臣の皇甫嵩が担ぎ出されて反乱を起こされても困るので、上下関係をはっきりと示す必要があったのでしょう。

因みに、皇甫嵩は優等生で野望も無く、董卓に対し反旗を翻す気もなかったはずです。

皇甫嵩の最後

192年に董卓王允呂布により命を落しました。

この時に皇甫嵩に、董卓の部下の涼州兵を指揮させようとする案も出ますが、王允は却下しました。

王允は後に命を落しますが、涼州出身で将才もある皇甫嵩に涼州軍を任せなかったのか悪手だったと言えるでしょう。

王允は董卓の部下達によって命を落し李傕郭汜、樊稠などが権力を握りました。

こうした中で皇甫嵩は車騎将軍や大尉となりますが、195年に病死したと考えられています。

同年に同じく黄巾の乱で活躍した朱儁も亡くなりました。

李傕と郭汜は争い献帝は、洛陽に移動する事になります。

ここで、献帝は人生最大の苦難を歩む事になりますが「皇甫嵩や朱儁がいてくれたら」と思う事が何度もあった様に感じています。

皇甫嵩の評価

皇甫嵩の人となりは慎み深く恩愛があり、忠勤を尽くしたと評価されています。

皇甫嵩が国の為に上表した事は500もあり、国家を良い方向に導きますが、草稿は全て破り捨てて自分の手柄として広めなかった話があります。

皇甫嵩は奥ゆかしい人でもあり、国家の為に真面目過ぎる程に尽くした人物だと感じました。

皇甫嵩は多くの人望を集めた人でもあり、有徳の人でもあったと言うべきでしょう。

董卓が権力を握った時に朱儁は、反董卓として陶謙と結託したりして動きますが、皇甫嵩はあくまで後漢王朝の臣下としての立場を貫いたと感じました。

華歆も皇甫嵩の事を評価し、朱儁や盧植に功績を譲った事を褒め称えています。

さらに、華歆は皇甫嵩の能力を評価しただけではなく、人間性も謙虚で争う事が無かったと述べました。

後漢書を著した范曄は、皇甫嵩が皇甫酈、閻忠、梁衍などの言葉を聞かなかった事を批判していますが、それと同時に皇甫嵩の人柄を褒め称えています。

皇甫嵩は名将であり、軍事だけを行わせておけば、間違いなくトップクラスの人材だった事でしょう。

尚、唐代の武廟六十四将の中で皇甫嵩は、鄧艾、張遼関羽張飛周瑜、呂蒙、陸遜、陸抗らと共に三国志の登場人物の中でランクインされています。

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