公孫康は公孫度の子であり、遼東公孫氏の二代目にあたる人物です。
遼東半島に勢力を持つ公孫康は中央の曹操には頭を下げましたが、朝鮮半島などに介入し勢力を拡げました。
公孫康の時代には帯方郡も設置されており、韓族や倭国まで公孫康の管轄下に置いています。
三韓を統治する辰王は公孫康が任命したのではないか?とする説もあり、朝鮮半島にまで影響力を発揮した人物でもあります。
袁氏を滅ぼす
204年に父親である公孫度が亡くなると、公孫康が後継者となります。
207年には曹操に敗れた汝南袁氏の袁尚と袁煕が公孫康に救いの手を求めて来ました。
遼東に逃げてきた袁尚と袁煕の処遇をどうするかで群臣達との間で会議が開かれたと思いますが、公孫康は最終的に袁煕と袁尚の首を斬り曹操に送る事になります。
公孫康は北伐を行った曹操が遼東に攻めて来る事を畏れ、袁氏兄弟の首を差し出したのでしょう。
袁氏兄弟を斬った事で公孫康は左将軍、襄平公に任命されました。
公孫康の時代は一貫して、中央の朝廷に頭を下げながらも、朝鮮半島など北方に領土を拡張していく戦略をとる事になります。
曹操にしても、南方の孫権や劉備、関中の馬超、韓遂らの相手をせねばならず、頭さえ下げておけば遼東にまで手出しはしない状態だったのでしょう。
朝鮮半島への進出
公孫康は中央に頭を下げつつも朝鮮半島への進出を試みる事になります。
正史三国志の魏志韓伝によれば、公孫康は楽浪郡の南に帯方郡を設置したとあります。
公孫康は屯有県の南の荒れ地を割き帯方郡としたわけです。
さらに、公孫康は帯方郡に公孫模や張敞らを派遣し、韓と濊の討伐を行わせました。
これにより韓と倭が帯方郡の属する事になったと言います。
公孫康は遼東、楽浪、玄菟、帯方の四郡を支配し高句麗、扶余、烏桓にも勢力を及ぼすなど勢力を拡大させました。
公孫康の実績を考えれば抜群の外交センスや英主としての感覚を持っていた様に感じています。
公孫氏の韓族支配
朝鮮半島の馬韓には月支国があり、辰王がいた記述が正史三国志にあります。
辰王は三韓地方に多大な影響力を与えたとも考えられています。
辰王は謎多き存在ではありますが、遼東公孫氏が韓の地を統治する為に送り込んだのではないか?とする説があります。
辰王が遼東公孫氏が送り込んだのであれば、公孫康が部下の一人を辰王として韓の地に送り込んだと考える事も出来るはずです。
ただし、魏志韓伝には辰韓は古の辰国とする記述もあり、この部分ははっきりとしない所でもあります。
公孫康の最後
公孫康が亡くなったのは、何年の事なのかは記載がなくよく分かりません。
しかし、曹丕は亡くなった公孫康に大司馬の位を追贈しました。
これらを考えると、曹操の時代の末期か曹丕の時代には、既に公孫康は亡くなっていたのでしょう。
公孫康の最後がどの様なものだったのかは記述がなく不明です。