室町時代

湊川の戦いを徹底解説!!

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宮下悠史

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湊川の戦い1336年
総大将足利尊氏新田義貞
司令官足利直義斯波高経少弐頼尚など楠木正成脇屋義助、大舘氏明など
兵力(太平記50万5万
損害不明不明
勝敗

湊川の戦いは建武政権期に勃発した新田義貞楠木正成足利尊氏による合戦です。

足利軍は圧倒的な兵力を持ち、朝廷軍の10倍以上あたっとも考えられています。

湊川の戦いで特に奮戦が光ったのが、楠木正成であり寡兵で足利直義の軍に攻撃を仕掛け後退させました。

最終的に楠木正成は楠木正季と共に、壮絶な戦死を遂げています。

新田義貞も圧倒的大軍の前に奮戦しますが、撤退し京都に戻りました。

湊川の戦いは朝廷軍の完敗であり、足利尊氏は京都に侵攻し室町幕府を開く事になります。

それらを考慮すれば、湊川の戦いは室町幕府を発足させ、南北朝時代が始まる決起となった戦いでもあります。

湊川の戦いの前段階と楠木正成

足利尊氏の建武政権離脱

足利尊氏が建武政権を離脱し、箱根竹ノ下の戦いで新田義貞を破り京都に向かって進撃してきました。

後醍醐天皇は奥州から北畠顕家を呼び寄せ、足利尊氏を破っています。

足利尊氏は赤松円心の進言に従い九州に落ち延び、持明院統の光厳上皇にコンタクトをとるなどし始めました。

朝廷では足利尊氏を京都に追い落とした事で、戦勝ムードでしたが、冷ややかな目で見ていたのが楠木正成です。

楠木正成は足利尊氏が九州で態勢を立て直し、大軍となって再び京都に進撃してくると予見していました。

足利尊氏は九州に向かいますが、楠木正成の脳裏には足利尊氏との何らかの戦い(湊川の戦い)があると考えていたのでしょう。

新田義貞と足利尊氏

梅松論によると楠木正成新田義貞の誅伐と足利尊氏を九州から呼び戻し、和睦を結ぶ様に後醍醐天皇に進言したと言います。

さらに、楠木正成は「自らが使者になる」とまで言いました。

楠木正成の構想では建武政権には「足利尊氏が必要」だと考えていたのでしょう。

楠木正成は鎌倉幕府を滅ぼしたのは足利尊氏のお陰であり、多くの武士は後醍醐天皇や新田義貞ではなく、足利尊氏に心を寄せていると告げます。

楠木正成は後醍醐天皇に「人望を失っている」とまで述べて、諫言し、足利尊氏も早い時期に軍を立て直し上洛軍を起こすと伝えました。

楠木正成は武略は自分に任せて欲しいと涙を流して訴えました。

しかし、新田義貞は後醍醐天皇の為に戦い抜いた忠臣であり、誅伐するのに後醍醐天皇は難色を示しています。

楠木正成が新田義貞の誅滅を進言したのは、足利尊氏は名目として「君側の奸・新田義貞の誅滅」を挙げていたからでしょう。

さらに、足利尊氏は後醍醐天皇を親愛しており、和睦が成る算段もあったと考えたのかも知れません。

後醍醐天皇や多くの者達は「戦いに勝ったのに和睦するのはおかしい」「功臣の新田義貞を誅するのはもってのほか」などと考えました。

楠木正成の進言は当然の如く却下されたと言えるでしょう。

楠木正成は後醍醐天皇に誅滅を進言した新田義貞と湊川の戦いで共闘する事になります。

尚、楠木正成の行動を見るに明らかに「親尊氏派」の武将です。

楠木正成の戦略

九州に上陸した足利尊氏少弐頼尚と共に、朝廷側の菊池武敏多々良浜の戦いで破りました。

足利尊氏は九州で態勢を立て直す事に成功し、弟の直義斯波高経らと共に上洛戦争を起こす事になります。

朝廷では足利尊氏の大軍に、対処しなければならなくなりました。

ここで楠木正成は後醍醐天皇が比叡山に入り、足利尊氏にわざと京都を占拠させ、新田義貞と共に包囲殲滅する作戦を進言しています。

しかし、1年のうちに二度も天皇が京都を離れるのは面子に関わるとし、坊門清忠らに猛反対されました。

楠木正成の戦略は却下され、楠木正成は新田義貞の援軍として兵庫に下向する様に命じられています。

策もなく楠木正成を足利尊氏の軍勢にぶつけるのは、楠木正成からしてみれば「討死せよ」と同語でもあったわけです。

楠木正成は死を顧みないのは「忠臣勇士」の望むところだと述べ、新田義貞がいる兵庫に向かいました。

因みに、わざと京都を敵に取らせ後で逆襲する方法は、南北朝時代に南朝に攻められるたびに、北朝の足利尊氏や義詮は行っており、戦いに勝つための優れた方法だという事は歴史画証明しています。

後光厳天皇などは南朝が攻めて来る度に、京都から離れました。

楠木正成は高い智謀から張良の比すべき武将だとされています。

漢の高祖・劉邦は張良のいう事であれば素直に何でも聞いた話がありますが、後醍醐天皇は楠木正成の意見に耳を傾けず劉邦にはなれなかったと言えるでしょう。

ここから楠木正成は湊川の戦いに挑む事になりますが、後醍醐天皇とは今生の別れとなりました。

自暴自棄な楠木正成

楠木正成は尼崎から後醍醐天皇に今回の戦いで「必ず負ける」とし、過去とは状況が違う事も述べています。

鎌倉幕府の滅亡の時に楠木正成は千早城の戦いや赤坂城の戦いなどを繰り広げました。

楠木正成は金剛山に籠城した時は、国中の様々な勢力が味方してくれたが、今回の戦いでは和泉・河内の武士たちだけではなく、民衆までもが難色を示していると述べています。

現在の後醍醐天皇は民衆に見捨てられており、自分は生きていても無意味なため、戦場で真っ先に命を落とすとも後醍醐天皇に告げた話があります。

こうした楠木正成の態度を見ると湊川の戦いを前に「自暴自棄」になっている様にも見えるわけです。

楠木正成が後醍醐天皇に厳しい態度で臨む姿は、西源院本の太平記にも記載されており、事実だったのではないかとも考えられています。

さらに言えば、建武政権の中で楠木正成は孤立していたとみる事も出来ます。

楠木正成は「親尊氏派」であり、足利尊氏に味方する選択肢もあった事でしょう。

足利尊氏も今までの楠木正成の言動を聞いていれば、悪い気はしなかったはずです。

しかし、楠木正成は天皇に対する忠義なのか、皇室を守る為なのか、新田義貞と共に湊川の戦いに挑む事になります。

湊川の戦い前夜

建武三年(1336年)5月に楠木正成は兵庫にいる新田義貞の元に向かう事になります。

太平記では楠木正成は既に死を覚悟しており、嫡子の楠木正行桜井の別れを済ませた事になっています。

楠木正行は「自分は合戦で死ぬだろうが、決して足利に屈する事無く戦い続けよ」と述べました。

楠木正成は楠木正行に「皇室を守る様に」とも伝え桜井宿で今生の別れとなり、二度と会う事は無かったわけです。

新田義貞がいる兵庫に楠木正成は到着し、湊川の合戦前夜に酒を飲みかわしました。

新田義貞は箱根竹ノ下の戦いで足利尊氏に敗れた事などを述べ、「この度は逃げずに結果度外視で戦いたい」と語りました。

戦死する覚悟がある事を新田義貞は楠木正成に伝えた事になるでしょう。

しかし、楠木正成は「これまでの貴方の戦略に過ちは無く、周囲の評価を気にする必要はない」と励ましました。

さらに、「良将は退くべき時には退くものだ」とも述べ、無理に戦い命を落とす事の危険さも説いています。

楠木正成は自らが誅伐する様に勧めた新田義貞を励まし、湊川の戦いで共闘したと言えるでしょう。

湊川の戦い

湊川の戦いの布陣

湊川の戦いが勃発しますが、足利軍と朝廷軍が布陣する事になります。

足利軍は足利尊氏が海軍を率いて播磨の室津に到着し、陸軍の足利直義が加古川に到着しました。

細川定禅の四国勢が先頭となり明石海峡、須磨の一隊に展開し、陸軍は摂津の一ノ谷から印南野に布陣しています。

兵庫に新田義貞楠木正成が布陣しており、ここを決戦場として足利尊氏は定めました。

足利軍は総大将として足利尊氏が置かれ、大手、山の手、浜の手の三軍に分けています。

山の手の大将は足利直義であり配下には高師泰、大友氏、三浦氏、赤松氏などが置かれ、山の手には斯波高経を大将とし安芸、周防、長門の軍勢が置かれました。

浜の手は少弐頼尚が大将となり、筑前、豊前、肥後、薩摩などの九州の武士が配属されています。

太平記によると朝廷軍は楠木正成が海から離れた湊川の西の宿に布陣し、足利陸軍の備えました。

新田義貞は海に近い和田岬に布陣し、脇屋義助が経島、大舘氏明が灯炉堂の南に布陣したと言います。

新田勢の敗北

足利軍の海軍を率いた細川定禅の五百艘ほどの船団が動き出し、海上を東に進み足利尊氏の本隊も続きました。

兵庫島(兵庫県兵庫区付近)に接近した足利勢の前には、湊川の後ろの山から里まで旗をなびかせ楯を並べる楠木正成の軍勢が布陣していました。

陸軍を率いた大手(足利直義)、山の手(斯波高経)、浜の手(少弐頼尚)も軍勢を前に進める事になります。

海岸線沿いを進んだ少弐頼尚が先に進軍し、一足早く合戦となります。

和田岬にいた新田軍は足利軍の勢いにおされ敗走しました。

足利軍の大手、山の手の軍勢も前進しています。

新田義貞の軍勢は敗走しますが、細川定禅の四国勢が兵庫の戦場から撤退しようとする新田義貞の軍勢を攻撃しました。

細川定禅は生田の森から上陸し新田勢を攻撃しています。

楠木正成の奮戦

新田勢が撤退した事で、楠木正成は足利軍に前後を挟まれる形となりました。

楠木正成は死地にいると悟りますが、楠木正季に前方の敵を蹴散らし、その後で背後の敵にぶつかる作戦を伝えています。

楠木氏の軍は前方にいる足利直義の大軍に七百ほどの軍で戦いを挑みました。

足利直義の軍は勝ち戦だと思い手柄を挙げようと考え、菊水の旗を見ると正成や正季を討ち取ろうと群がる事になります。

しかし、楠木正成の軍は怯むことなく、直義の首だけを目指して突撃を続けました。

足利直義の軍は五十万いたとする記録もありますが、楠木軍に押されまくり後退しています。

流石に、当時の日本で五十万の兵が集められるのかも微妙であり、楠木軍よりも圧倒的に数は多かったはずですが、五十万は流石に誇張表現でしょう。

足利尊氏は直義が楠木勢に押されている所を見るや、援軍を出しました。

細川定禅も楠木勢の勢いは並大抵ではないと判断しており、新田義貞の追撃を後回しとし、楠木勢に背後から攻撃を仕掛ける事になります。

楠木正成の最後

足利尊氏は寡兵で奮戦する楠木正成に対し、正面からぶつかる事はせず、敵を分断させて徐々に包囲する作戦に出ました。

楠木勢は削られて行き6時間の戦闘で七十騎ほどにまで減少しています。

楠木正成は絶体絶命の危機が訪れますが、楠木正成は京都を出た時から討死と決めており、逃げようともしなかったわけです。

楠木正成は自害を決断し、湊川の北にある民家に入りました。

楠木正成は民家の中に入り、楠木正季と七度同じ人間として生まれ変わり、必ずや朝敵を滅ぼそうと「七生報国」を誓い将兵たちは腹を斬り、楠木正成と正季は刺し違えて亡くなりました。

太平記の名場面となっている楠木正成の最後ですが、実際には「その場にいた者」しか分からない筈であり、創作の可能性も十分にあると考えられています。

新田義貞の撤退

湊川の戦いで敗れた新田義貞は西宮に逃れる事になります。

足利尊氏直義は軍を東進させ、新田義貞の軍と戦闘になりました。

新田義貞は生田の森を背後に戦いに挑む事になります。

この時に足利勢は30万いたとされていますが、新田勢は十分の一以下だったとされています。

太平記には、この時の激戦の様子を「両虎二龍の戦い」とも述べました。

寡兵の新田勢は奮戦しますが、戦況を覆す事が出来ずに生田の森を撤退し丹波路に逃れています。

足利の大軍に追われた新田義貞ですが、自ら殿を務め兵たちを京都に逃す為に奮戦しました。

新田義貞は足利軍の大軍を相手に戦いますが、馬を射られ窮地に陥っています。

義貞は鬼気迫る勢いで戦い続け、足利勢は新田義貞に近づく事も出来ず後方から矢を放ちました。

新田勢の小山田高家が新田義貞の元に駆け付け、自らの馬を差し出し義貞を逃しています。

小山田高家は単騎で敵に突撃を仕掛け、新田義貞は涙を流し戦場を後にしました。

新田義貞が完全に撤退した事で、湊川の戦いは足利勢の勝利が決まりました。

同時代資料による湊川の戦い

今までは太平記や梅松論を元にした湊川の戦いを紹介しました。

ここからは一時資料に則り話を進めて行きます。

一時資料から考えても湊川の戦いが勃発したのは本当の事です。

足利尊氏が勝利した事も間違いありません。

ただし、一時資料を見ると兵庫島、摂津兵庫浜、兵庫湊河などの言葉で書かれている場合もあります。

一時資料には湊川の戦いで生き残った者達の功績が示されたりしています。

楠木正成の軍には楠木一族の神宮寺正房や八木弥太郎入道法達、岸和田治氏らが加わっていました。

これらの三名は楠木正成と共に自害せず、生き延びて畿内で足利尊氏の軍と戦っています。

興福寺の僧である朝舜の書状には、楠木正成たちが民家に籠り火を掛けて自害した事が書かれています。

その後に、足利勢の細川なるものが、楠木勢の首を回収し、二日ほどで楠木正成の首を特定しました。

一時資料から湊川の戦いの詳細は不明ですが、楠木正成が最期を迎えたのは確かなようです。

一時資料からは摂津の湊川で戦いがあり、楠木正成が戦死したという簡略な記述が分かる程度となっています。

楠木正成の首供養

梅松論に湊川の戦いが終わると、足利尊氏が魚御堂に本陣を置いた話があります。

兵庫県の魚御堂に五十町ほどの所領を寄進し、楠木正成の首供養を行いました。

太平記では楠木正成の首は六条河原に晒された後に、楠木正行の元に送り返した話があります。

楠木正行は発狂してしまい思わず自害しそうになりますが、母親に止められた逸話が残っています。

湊川の戦いの前に楠木正成は足利尊氏を高く評価していましたが、建武政権に取り込む事が敵わず、最終手段として湊川の戦いを望みました。

同じ様に尊氏も楠木正成を高く評価しており、楠木正成の首を丁重に扱った可能性も残っています。

湊川の戦いが与えた影響

湊川の戦いで足利軍は勝利し、京都に進撃しました。

後醍醐天皇は三種の神器と共に比叡山に逃れ、新田義貞が守る展開となります。

湊川の戦いの前に楠木正成は後醍醐天皇に比叡山に入る様に進言しましたが、湊川の戦いで敗れた事で後醍醐天皇は結局は比叡山に入ったわけです。

足利尊氏は持明院統の光明天皇を践祚させ、兄の光厳上皇を治天の君としました。

さらに、建武式目を制定し室町幕府が発足したわけです。

後醍醐天皇は足利尊氏と和睦するも、吉野に逃れて南朝を開きました。

これにより南北朝時代が始まる事になります。

尚、湊川の戦いが終わって暫くすると、足利尊氏は畠山国清を和泉守護とし、楠木勢と戦った話があります。

楠木勢は手強く幕府に対して、不安要素だったとする指摘もあります。

湊川の戦いの後も楠木氏や新田氏は南朝を支持する武将として戦い続けました。

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