古代オリエント

ムワタリ2世は大国エジプトと戦ったヒッタイト王

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宮下悠史

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名前ムワタリ2世
生没年生年不明ー前1272年
在位前1290年頃ー前1272年頃
国ヒッタイト
一族父:ムルシリ2世 配偶者:ダヌヘパ 弟:ハットゥシリ3世
子:ムルシリ3世、クルンタ、ウルミ・テシュプ
年表前1274年 カデシュの戦い
コメントタルフンタッシャに遷都した記録もある

ムワタリ2世はムルシリ2世の子であり、ヒッタイト王となりました。

エジプト第19王朝のセティ1世やラムセス2世と戦ったヒッタイト王でもあります。

カデシュの戦いは有名ですが、この時のヒッタイトの王がムワタリ2世だったわけです。

ムワタリ2世はタルフンタッシャに遷都し、カデシュの戦いに臨んだとみられていますが、ヒッタイト側の記録としてカデシュの戦いと同定できる記録は存在していません。

ただし、アムル国を討伐しエジプトと戦った記録があり、これがカデシュの戦いを指している可能性は残っています。

タルフンタッシャの遺跡が見つかっていない事もあり、ムワタリ2世の治世の出来事は知られている事が少ない状態です。

ヒッタイトとウィルサの条約

ムワタリ2世の時代にアナトリア西部の、ウィルサの支配者であるアラクサンドゥと条約を結んだ記録が残っています。

ウィルサの正確な場所は不明ですが、一つの説としてトロイだったのではないかとも考えられています。

こうした事情もあり、トロイア戦争の界隈では注目を集めている都市です。

タルフンタッシャに遷都

ムワタリ2世の時代にハットゥシャから、アナトリア半島の南部のタルフンタッシャに遷都を行っています。

遷都の理由は明らかになっていませんが、エジプト第19王朝はレヴァントへの進出を強めており、第19王朝との戦いに備える為だったとも考えられています。

ムワタリ2世が遷都したタルフンタッシャですが、トゥルクメン・カラホユックが有力候補となっていますが、正確な場所は未だに分かっていません。

カデシュの戦い

紀元前1274年頃にカデシュの戦いが勃発しました。

エジプト第19王朝ではラムセス2世の活躍など、カデシュの戦いが詳細に描かれています。

それに対し、ムワタリ2世のヒッタイトでは、カデシュの戦いの記録が見つかっていません。

後世の記録ではムワタリ2世の時代にヒッタイトとエジプトが戦った事は書かれていますが、シンプルな記述に留まっています。

それ故に、カデシュの戦いはヒッタイトにとっては「小さな出来事でしかなかった」とする説も存在している状態です。

先にも述べた様にタルフンタッシャの場所がよく分からない状態にもなっており、場所が確定し多くの粘土板が発見されれば、また状況は変わってくるはずです。

カデシュの戦いですが、エジプト側の記録では第19王朝が勝利した事になっていますが、実際にはヒッタイトがカデシュを守り切っており、ヒッタイトが勝利したと考えられています。

ヒッタイトの目的はアムル国を傘下に戻す事だったともされていますが、アムル国はヒッタイト側になっており、目的は達したとみる事が出来ます。

ムワタリ2世の最期

ムワタリ2世は紀元前1272年頃に亡くなったとされており、カデシュの戦いの2年後に亡くなった事になります。

カデシュの戦い後に、ラムセス2世は2度ほどレヴァント遠征を行っており、エジプト第19王朝との戦いは終わらなかったと言えます。

ムワタリ2世の後継者は息子のムルシリ3世(ウルヒ・テシュブ)がヒッタイト王に即位しました。

ムワタリ2世が亡くなってから、14年程が経過するとヒッタイトとエジプト第19王朝の間でカデシュ条約が結ばれる事になります。

カデシュ条約は紀元前1269年頃に結ばれたと考えられています。

先代:ムルシリ2世ムワタリ2世次代:ムルシリ3世

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