
| 名前 | トトメス2世 |
| 生没年 | 生年不明ー前1492年頃 |
| 時代 | エジプト文明、エジプト新王国 |
| 国 | エジプト第18王朝 |
| 一族 | 父:トトメス1世 母:ムウトネフェルト |
| 配偶者:ハトシェプスト、イシス 子:トトメス3世 | |
| コメント | ヌビア遠征を成功させた。 |
トトメス2世はエジプト第18王朝のファラオです。
トトメス2世の王妃になったのがハトシェプストであり、知名度であれば圧倒的にハトシェプストの方が上でしょう。
治世が3年と短く(10年を超える説もある)記録も少ない事から、病弱だったのではないかと考えられています。
父親のトトメス1世と息子のトトメス3世が英雄的な君主で、西アジアに大遠征を行ったのとは対照的です。
しかし、トトメス2世にはヌビア遠征での功績があり、エジプトの南方の統治を安定させた実績があります。
亡くなる前に後継者をトトメス3世と決めますが、まだ幼くハトシェプストが政治の実権を握る時代に突入しました。
ファラオとなった経緯
トトメス2世はトトメス1世とムウトネフェルトの子です。
ムウトネフェルトはアメンホテプ1世の娘となります。
ただし、トトメス2世はトトメス1世の正妃の子ではありませんでした。
正妃の娘であるハトシェプストを妻に迎える事で、正統性を強化しています。
トトメス2世はトトメス1世の第一王妃イアフメスの第一王女であるハトシェプストと、婚姻する事で王位を継承したといえるでしょう。
ヌビアを安定させる
ハトシェプストは戦争は嫌ったとされていますが、父親のトトメス1世や息子のトトメス3世は、西アジアに遠征し大戦果を挙げています。
それに対し、トトメス2世は病弱だったのではないかとする説もあります。
トトメス2世は南パレスチナに遠征はしましたが、領土獲得の為の遠征とは言えず、この時代に西アジアへの進出は行っていません。
パレスチナ遠征は南部地域までに留まりました。
それでも治世1年目にヌビア遠征を行い反乱鎮圧に成功し、戦勝碑をアスワンに建立しました。
トトメス2世はヌビアの反乱は徹底的に鎮圧しており、トトメス1世が拡げた南の第3カタラクトまでの領地を安定させました。
これ以降に、エジプト新王国時代にヌビアで大規模な反乱は起きていない事もあり、トトメス2世の功績は大きいと言えます。
トトメス2世は治世が短く記念建造物は殆ど残っていませんが、ヌビアでの活躍は大きく同地では建造物が比較的見つかっている状態です。
トトメス2世の建造物
トトメス2世はテーベでは、カルナクのアメン大神殿の、第四塔門の石灰岩製の門を建造した事が分かっています。
ただし、後世には壊されアメンホテプ3世の時代に、第三塔門の基礎に再利用されています。
それでも、現在はカルナクのアメン大神殿の野外博物館で復元されている状態です。
レリーフにはトトメス2世とハトシェプストが描かれていますが、ハトシェプストが単体で表現されているものも存在しています。
尚、この建造物はハトシェプストがトトメス3世の摂政を行った1年目に完成したとされていますが、ハトシェプストの強い立場が分かる様でもあります。
因みに、ハトシェプストの葬祭殿には、トトメス2世がシリアやヌビアに遠征したとする碑文が残っています。
トトメス2世の最期
トトメス2世の治世は僅か3年しかなかったとも言われていますが、別説としては10年を超えていたとも考えられています。
記録の少なさはトトメス2世の治世の短さゆえだともされています。
王妃のハトシェプストとの間にはネフェルウラーという女性が誕生しますが、男子は誕生しませんでした。
ただし、イシスとの間にトトメス3世が誕生しています。
トトメス2世は自分が在位している間に「後継者はトトメス3世」と宣言し世を去っています。
自分が亡くなればハトシェプストの時代が来ると考えており、エジプト第18王朝の血統も考えて、トトメス3世を後継者に指名したとも考えられています。
トトメス3世はエジプトの領土を大きく拡げた英雄的な君主であり、トトメス2世には人を見る目があったと言えるでしょう。
トトメス2世のミイラはディール・アル=バフリーの王家のミイラの隠し場から発見されています。
2025年にトトメス2世の王墓も発見されており、世界中でニュースとなりました。