
| 名前 | エジプト第18王朝 |
| 建国から滅亡 | 前1570年頃ー前1293年頃 |
| 時代 | エジプト新王国、エジプト文明 |
| 首都 | テーベ→アケトアテン→メンフィス? |
| コメント | エジプト文明の全盛期でもあった。 |
エジプト第18王朝は第17王朝がヒクソスを打倒した事で誕生しました。
この時代からエジプト新王国として、数えられる事になります。
第18王朝のトトメス1世やトトメス3世は西アジアに大遠征を行っており、エジプト文明全体でも最大領域に達しました。
今までの古王国や中王国はエジプトの外に領地を持ちませんでしたが、第18王朝で初めて海外に領地を持つ事になったと言えるでしょう。
エジプト第18王朝は神殿も多く建設されるなど、文化面でも華やかな時代でもありました。
尚、日本で一番有名なファラオと言えば、ツタンカーメンだと感じますが、ツタンカーメンも第18王朝のファラオです。
ハトシェプストも第18王朝のファラオとなります。
しかし、アクエンアテンの宗教改革の失敗もあり衰退し、最後はファラオの部下だったアイやホルエムヘブがファラオとなる事態に発展しました。
ホルエムヘブがラムセス1世を後継者にした事で第18王朝は滅亡し、第19王朝が誕生しました。
今回はエジプト第18王朝の建国から滅亡までの歴史を解説します。
エジプト第18王朝の歴史
エジプト第18王朝の始まり
エジプト第17王朝と第18王朝は繋がっており、第17王朝がナイルデルタからヒクソスを駆逐してから、第18王朝と呼ばれる様になりました。
第17王朝最後のファラオであるカーメスと第18王朝の始祖のイアフメス1世は、兄弟とも言われていますが、少なくとも同族ではあったようです。
イアフメス1世が亡くなるとアメンホテプ1世が即位しますが、幼かった様であり、実質的な母親であるイアフメス=ネフェルタリが摂政となり政治を行いました。
エジプト第18王朝は南方のヌビア遠征を行い多くの黄金を手にする事になります。
ヌビアの黄金は第18王朝を栄えさせました。
アメンホテプ1世の時代は領土が拡大されるだけではなく「死者の書」もこの時代に編纂されたと考えられています。
他にも、この頃にテーベのアメン神と太陽神ラーが同一視され、アメン=ラー信仰が確立したともみられている状態です。
トトメス1世の時代
トトメス1世の時代になると、ヌビア遠征を行うだけではなく、西アジアにも積極的に進出しました。
この時代からエジプト第18王朝は、大拡張期に入る事になります。
トトメス1世はパレスチナやシリアにも遠征しユーフラテス川まで勢力範囲を及ぼした話もあり、ミタンニ王国とも勢力範囲が重なるまでになりました。
ただし、アメン神を祀る神殿も多く建造しており、これによりアメン神官団の力が強まる事になります。
トトメス2世の治世はヌビア遠征を行い南方を盤石としました。
トトメス2世が亡くなると、トトメス3世がファラオとなりますが、まだ幼かった事もありハトシェプストが実権を握る事になります。
ハトシェプストの時代
トトメス3世の母親はイシスですが、トトメス2世の正妻であるハトシェプストが実権を握りました。
ハトシェプストは王家の谷に自分の墓も建造しており、実質的にファラオの様にも振る舞っていますし、トトメス3世の共同統治者にもなっています。
ルクソール神殿はこの時代に建設されたとも見られています。
ハトシェプストは有能な人物を登用する事を心掛けた様で、決して高い身分ではなかったセンエンムウトが宰相に就任しました。
トトメス3世の時代
トトメス3世の単独統治の時代が訪れると、大遠征を行う時代に突入する事になります。
カデシュを盟主とするカナン連合とメギドの戦いで勝利したのも、トトメス3世の時代です。
8回目の遠征ではユーフラテス川の東岸にまで、到達した記録があります。
トトメス3世は17回もの遠征を成し遂げました。
ヒッタイトやアッシリア、カッシートの王はトトメス3世に使者を派遣し、シリアの領有権を認めたとも伝わっています。
ヌビア遠征も行っており、ヌビアを上ヌビアと下ヌビアに分けました。
トトメス3世は「エジプトのナポレオン」とも呼ばれており、この時代がエジプト第18王朝の最大領域となり、同時にエジプト文明においても最大領域となっています。
ただし、エジプト第18王朝では直接統治は行わず、現地の有力者に統治をさせていたと考えられています。
エジプト第18王朝のハトシェプストやトトメス3世の治世では、アメン大司祭の役職が有力貴族で独占されていた事が分かっています。
大臣のウセルアメンなどトトメス3世の治世の高官はファラオだけに許されていた「アムドゥアト書」で装飾された墓まで持つ様になっていました。
ハトシェプストの娘のネフェルウラーの教育係のセンエンムウトは二基の墓を持ち、天井には王墓にみられる様な天体図が描かれており、豪華なものとなっています。
アメンホテプ2世の時代
エジプト第18王朝は、アメンホテプ2世の治世になると、トトメス3世の大遠征で活躍したものが重用されました。
こうした者達とアメンホテプ2世は近しい立場となり、チャリオットの使い方や武芸を覚え成長していく事になります。
「南の異国の総督」の名で呼ばれたウセルサテトは、アメンホテプ2世の子供の頃からの友人だったと伝わっています。
他にも、アメンホテプ2世の宰相になったアメンエムオペトや、弟でテーベ市長となったセンネフェルは早い段階で、王家との繋がりをみせています。
二人はシェイク・アブデル・クルナの丘に巨大な岩窟礼拝堂を持ち、王家の谷に墓を造営する事まで許されました。
エジプトの繁栄を享受したとも言えるでしょう。
トトメス4世の治世
トトメス4世の時代になると、トトメス3世の時代の様な大遠征の時代は終わっており、軍人が政治の中枢に入る事は激減しました。
その代わりに、貴族たちが官僚となり勢力を伸ばす事になります。
エジプト第18王朝の政府高官の中には、トトメス4世と深い付き合いがあり、重用された者もいました。
家令のチャヌニはトトメス4世の事を「真の育ての親」とまで述べています。
アメンホテプ3世の治世
エジプト第18王朝は、アメンホテプ3世の時代になると、テーベ以外の場所で高官たちの記念建造物が目立つ様になって行きます。
宝庫長のセベクメスや子のセベクヘテプは、テーベとアルマントの間のリズィカトに墓を造営し、宰相のアぺリアの墓はサッカラに存在しています。
ただし、高官の墓の大半はテーベの西岸に造営されました。
宰相にもなったラーメスやアメンホテプ(ファラオとは別人)は、石灰岩の岩盤を穿った壮麗な墓を残しています。
ファラオのアメンホテプの穀倉長のカエムハトや王妃となっていたティイの宝庫長のケルエフ、後宮を取り仕切ったウセルハトもテーベに見事な装飾を施した岩窟墓を建設しています。
アメンホテプ3世の最側近の「ハブの子アメンホテプ」も葬祭殿の造営を許されました。
この時代の政府高官は、これまでのファラオの墓よりも、豪華なものを造っていた事もわかっています。
アメンホテプ3世の時代はエジプト第18王朝や新王国時代の全盛期に留まらず、エジプト文明全体の全盛期でもあり、多くの人々が繁栄を享受したと言えそうです。
アマルナ時代
アメンホテプ4世(アクエンアテン)の時代になりますが、アメン神官団が力を持ちすぎた事を問題視する様になります。
エジプト第18王朝はテーベから、アケトアテン(アマルナ)に遷都しました。
アクエンアテンは宗教改革に熱心であり、アテン神を唯一神とする一神教を始め、アメン神などの古来からいたエジプトの神々を否定しています。
アケトアテンの建設にも過酷な労働もあった様であり、繁栄を享受していた第18王朝に暗い影を落とすようになります。
アクエンアテンは宗教改革に全精力を注いだとも言ってよい人物であり、国外への関心は薄かったと考えられています。
ミタンニ王国はエジプト第18王朝の支援が薄くなった事で、ヒッタイトに押されまくり弱体化しました。
他にも、西アジアの多くの都市がエジプトから離反するなど、ファラオが本来やるべき政治や戦争を行わず、第18王朝は弱体化に繋がったと考えられています。
宗教改革の方も行き詰まりを見せ、アクエンアテンの治世の後半には、多神教に戻る動きが強まりました。
アクエンアテンの時代にスメンクカーラーやネフェルネフェルウアテンが共同統治を行った事が分かっていますが、現在では二人はネフェルティティの可能性が高いとされています。
ネフェルネフェルウアテンが亡くなると、ツタンカーメンが後継者となりました。
尚、エジプト第18王朝のアケトアテンを本拠地とした時代は、アマルナ文書が見つかっており、様々な発見がありました。
エジプト第18王朝の滅亡
ツタンカーメンは即位しますが、8歳ほどの子供であり、宰相のアイや大将軍のホルエムヘブが政治を行う事になります。
この時代に異端の都でもあったアケトアテンは放棄され、異説はありますが、ツタンカーメンはメンフィスに遷都しました。
ツタンカーメンの時代も多神教に回帰していく事になります。
少年王として即位したツタンカーメンですが、在位は9年ほどで亡くなっており、王家の人間で後継者がいなくなりました。
尚、ヒッタイト側の記録で未亡人の王妃が、ヒッタイト王のシュッピルリウマ1世の息子をエジプト王にしたいと要請した記録が残っています。
王妃の名前は不明ですが、ツタンカーメンの夫人のアンケセナーメンだったとも、ネフェルティティだったともされており、正確な部分は不明です。
シュッピルリウマ1世は息子をエジプトに送りますが殺害されており、これがザナンザ事件と呼ばれ、エジプト第18王朝とヒッタイトの関係が悪化しました。
因みに、ザナンザ事件の当事者であるエジプト側の記録は全くなく、新資料が出土すれば状況は変わってくるのかも知れません。
老齢に達していたアイが即位しますが、4年で亡くなり大将軍のホルエムヘブがファラオとなりました。
しかし、ホルエムヘブには子がなく、腹心とも呼べるラムセス1世が即位しました。
ラムセス1世の時代から世襲制が復活し、エジプト第19王朝が誕生する事となり、第18王朝は滅亡しました。
エジプト第18王朝の滅亡理由は、王家の人間がいなくなり、ホルエムヘブがラムセス1世を後継者にした事で滅亡したと言えそうです。
王妃とアメン神
エジプト第18王朝の王位継承と深く関わっていたのが、王妃とアメン神です。
王(ファラオ)はアメン神でもあり、王妃と結ばれる事で、次の王が誕生するとされていました。
アメン神の聖なる血統が重要であり、王と王妃の父親と母親は同じというのが理想だと考えられていたわけです。
王妃から王子が生まれなかった場合は、嫡出の王女と結婚する事で王位を継承していました。
現代でいえば、近親婚になってしまいますが、当時のエジプト文明では、当たり前の様に行っていたと言えるでしょう。
ただし、兄と妹が結婚したりするのは、外戚による権力の乱用を防ぐ為だったとする説もあります。
ファラオの娘は基本的に王族以外と結婚できない様にもなっていました。
エジプト第18王朝のファラオ
・アイ