室町時代

新田義興には怨霊伝説がある

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宮下悠史

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名前新田義興
生没年1331年ー1358or59?
時代南北朝時代
一族父:新田義貞 母:天野時宣の娘
兄弟:義顕、義興、義宗、千葉介氏胤の妻
年表1352年 武蔵野合戦
コメント死後に怨霊になった話がある。

新田義興は新田義貞の息子であり、兄弟に義顕、義宗がおり、南朝の為に奮戦しました。

北畠顕家の第二次上洛戦にも参戦しています。

新田義顕が金ヶ崎城の戦いで命を落とすと、新田氏の後継者として位置づけられていた話もあります。

観能の擾乱が終わると武蔵野合戦が勃発しており、ここで新田義興、義宗、脇屋義治が上野に集合しました。

武蔵野合戦では旧直義派の上杉憲顕も味方するなど、一時的に足利軍を破り鎌倉を奪取しますが、短期間で奪い返されています。

その後は再び潜伏生活に入りますが、太平記では畠山国清の依頼を受けた竹沢右京亮により、最後を迎えた事になっています。

尚、新田義貞が亡くなると怨霊伝説まで生まれました。

新田義興は松井優征先生の「逃げ上手の若君」にも登場し、知名度は上がっていると言えるでしょう。

新田義興の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。

上洛戦争

上野で挙兵

新田義興が最初に登場するのは、太平記の第十九巻にある北畠顕家の二度目の上洛戦の時です。

北畠顕家の一度目の上洛の時は、新田義興は上野の新田荘から動きませんでしたが、二度目の上洛戦では合流する事になります。

奥州の北畠顕家は後醍醐天皇の要請もあり、義良親王を奉じて上洛軍を起こしました。

太平記では徳寿丸(新田義興)が上野で挙兵し、2万の兵で北畠顕家の軍に合流した事が書かれています。

徳寿丸の名で書かれている事から、この時の新田義興は元服前だったとされています。

しかし、当時の上野は斯波家長により制圧されており、新田城も落されていた事が分かっています。

さらに、上野守護の上杉憲顕が現地に下向し、目を光らせていた中での挙兵だったはずです。

北畠顕家の軍に合流

上野で挙兵した新田義興ですが、直ぐに武蔵に移動しました。

武蔵では高麗一族が軍に加わっています。

高麗一族は新田義貞の軍に滅ぼされていますが、鎌倉幕府と親しい立場でありながら幕府を裏切った足利よりも、新田氏に親近感を持ち、新田義興に味方したと考えられています。

新田義興は入間川で着到を付け、奥州の北畠顕家がやってくる前に、既に上野から武蔵までの道を確保していた事が分かっています。

さらに、新田義興は北畠顕家の到着が遅れるようならば単独での鎌倉攻めも考えていたと言います。

太平記の二万の記述をそのまま信じていいのかは微妙ですが、新田義興の元に多くの兵が集まり、しかも士気が高かったと見る事が出来るはずです。

北畠顕家の軍が武蔵府中に到着すると新田義興だけではなく、宇都宮公綱北条時行も合流しました。

新田義興、北条時行、宇都宮公綱は北畠顕家の軍に吸収されてしまうのを恐れ、独自性を確保していたと考えられています。

奥州軍は北畠顕家の軍団と思われがちですが、新田氏、北条氏、宇都宮氏の連合軍だったと言えるでしょう。

奥州軍は鎌倉を陥落させました。

新田義興と後醍醐天皇

北畠顕家率いる奥州軍は青野原の戦いで幕府軍を破るなどし、伊勢路から吉野に入りました。

太平記によると吉野で後醍醐天皇が新田義興に「誠に武勇の器用なり、尤は義貞が家をも興すべき者なり」と述べています。

この時の新田義興はまだ元服しておらず、徳寿丸と名乗っていましたが、帝の御前で元服する事になり、先の言葉から「義興」と名付けられました。

後醍醐天皇は新田義興を気に入ったのでしょう。

ただし、奥州軍は幕府軍の高師直に石津の戦いで敗れ、北畠顕家は戦死し、上洛戦は苦いものとなりました。

常陸合戦

常陸合戦の始まり

後醍醐天皇の最後の策は結城宗広の案で、各地に親王と南朝の重臣を派遣し、地方から挽回する事でした。

これにより義良親王や北畠親房、北畠顕信らが陸奥に向かう事になりますが、暴風雨により北畠親房や伊達行朝のみが奥州にまで辿り着いたわけです。

新田義興は北畠顕家の戦死後に宗良親王と東国を目指す事になり、太平記によると北条時行と共に関東八カ国を制圧する様に命じられたと言います。

しかし、こちらも暴風雨により宗良親王は遠江に漂着し、新田義興は武蔵国に辿り着きました。

父親の新田義貞脇屋義助新田義顕と共に恒良親王や尊良親王を擁立し、最終的に北陸で活動しますが、新田義興は関東で戦い抜く事になります。

常陸に辿り着いた北畠親房は小田治久に迎えられ春日顕国らと協力し、勢力を拡大させる事になります。

足利尊氏は北畠親房打倒の為に高師冬を関東に派遣しました。

これにより常陸合戦が始まりますが、新田義興は独自の行動を取った事が分かっています。

新田義興と小山朝郷

常陸合戦で北畠親房は結城親朝と連携して戦おうとしており、結城親朝宛ての手紙が多数残されています。

この中で新田義興の名前も登場しています。

南朝の北畠親房の政敵である近衛経忠は、藤氏一揆の形勢を目指し東国の藤原姓の元に団結を呼びかけていました。

近衛経忠は小山朝郷を坂東管領にする計画もあった様で、小山氏や小田氏に働きかけています。

この中で新田義興の家来が「小山朝氏(朝郷)が味方となり新田義興に属したので、廷尉に任じて頂きたい」と申請してきた話があります。

北畠親房の書状により、新田義興が小山氏と接触していたのではないかと考えられています。

これらの話をまとめると、小山氏は新田義興を盟主とし一揆を形成し、新田義興は小山氏に廷尉の位を南朝に申請し味方を増やそうとしていたとみる事が出来るはずです。

ただし、こうした小山朝郷や近衛経忠、新田義興の動きは北畠親房の知らぬ所で話が進んでおり、不信感を買う事になります。

北畠親房は新田義興に真意を尋問すると、新田義興は「自分は全く知らない事であり、家臣の中に勝手に動いている者がいるのではないか」と答えました。

新田義興はしらばっくれた様に見る事も出来ます。

しかし、新田義興は北条時行と共に後醍醐天皇から関東八カ国の平定を命じられており、関東の武士を南朝に引き込むために独自に動いていた可能性は十分にあるはずです。

南朝は幕府に対して劣勢だったにも関わらず、団結力に欠けていた部分もあり、結局は常陸合戦で高師冬に敗れました。

北畠親房は吉野に戻りますが、新田義興は、その後も東国で活動する事になります。

武蔵野合戦

鎌倉を陥落させる

文和元年(1352年)に新田義興、義宗と共に脇屋義治が上野に集結しました。

脇屋義治は脇屋義助の子です。

新田一族が上野に集結し、挙兵する事になります。

この時に、世良田の長楽寺に禁制を交付したのが新田義興であり、新田軍の総大将が新田義興だという事が分かるはずです。

この頃は観応の擾乱が終わり、足利直義が死去した頃であり、足利尊氏が関東にいました。

足利尊氏と対峙しますが、新田義興の軍には旧鎌倉幕府勢力の北条時行や旧直義派の上杉憲顕もいました。

新田義興の軍は武蔵へ進撃すると、あっという間に鎌倉を占拠する事になります。

この時の新田軍の進軍は電光石火であり、僅か4日で鎌倉を陥落させたとも伝わっています。

父親の新田義貞よりも短い期間で鎌倉を陥落させました。

鎌倉を退散

新田義宗が鎌倉を守備する事となり、新田義興や脇屋義治らは武蔵に進出し、鶴見、関戸を通り金井原、人見原などで足利軍と交戦しました。

信濃からの宗良親王の到着を待ち、合流するのが作戦だったともされています。

その後に、新田義興は鎌倉に戻りました。

新田義宗や宗良親王は小手指原など各地で足利尊氏の軍と戦い、新田義興は鎌倉で足利軍と戦いました。

新田義興の方は勝利しますが、新田義宗や宗良親王らは敗れ形勢が不利になる中で、新田義興も鎌倉を退去し平塚に移動する事になります。

相模の河村城で足利軍と戦闘を行いますが、ここでも敗れました。

武蔵野合戦は鎌倉を占拠する事は出来ましたが、最終的には敗れたと言えるでしょう。

越後で奮戦

新田義興、義宗、脇屋義治、宗良親王らは、越後で足利軍と戦う事になります。

ただし、越後の戦いで本当に新田義興が参戦していたのかは分からないとする専門家もいる状態です。

文和二年(1353年)と三年(1354年)に新田勢は足利軍を交戦しましたが、敗れました。

さらに、1355年にも室町幕府の軍勢と戦いますが敗れています。

幕府方に連続して敗れた事もあり、新田義興らは再び潜伏生活に入りました。

新田義興の最後

太平記の新田義興の最後

太平記の三十三巻の最後に新田義興が憤死する話が掲載されています。

太平記によると鎌倉公方の足利基氏と関東執事の畠山国清は、新田義興を危険人物だと考えて始末しようと考えました。

ここで強欲で知られる竹沢右京亮が登場し、膨大な恩賞と引き換えに新田義興の誅殺を依頼する事になります。

竹沢右京亮は承諾し、罪を犯し追放された事とし、新田義興に接近しました。

竹沢右京亮は美女の少将局などで新田義興に近づくなどもしています。

竹沢右京亮は新田義興を酒宴に招き殺害しようとしますが、少将局は新田義興に惹かれており、夢のお告げを利用し、七日間は外出しない様に告げています。

しかし、少将局は竹沢右京亮により殺害されました。

竹沢右京亮は単独では新田義興を暗殺出来ないと考え、畠山国清に依頼し江戸遠江守の協力を要請しています。

畠山国清は了承し、江戸遠江守は竹沢右京亮と協力し、新田義興打倒に動く事になりました。

新田義興は鎌倉に誘い出される事になります。

矢口の渡しから新田義興は船に乗りますが、船には穴が空いており、栓をして船を出港させました。

対岸にいる江戸遠江守が三百騎ほどの軍勢を率い、さらにその裏には竹沢右京亮の射手百五十人が新田義興の命を狙いました。

船が多摩川の半ばまで来ると、栓が抜かれ新田義興の船は沈みだし、対岸からは嘲笑が轟く事になります。

新田義興は敗北を悟り、自害し家来たち13人も後を追いました。

これが太平記における新田義興の最後です。

しかし、ドラマチックな演出もあり、本当なのか分からない部分も多いです。

史実の新田義興の最後

大乗院寺社雑記には「新田兵衛佐義興、武蔵国に於いて自害す」とのみ記録されています。

何が理由で新田義興が自害する事になったのかは分かっていません。

武蔵野合戦で近畿にいた足利尊氏が京都に戻る時に、鎌倉公方の足利基氏の本拠地を鎌倉から入間川に遷しており、これにより新田義興の探索が進んだとする見解もあります。

新田義興は1358年、もしくは1359年に亡くなっていますが、1359年で考えると、関東執事の畠山国清の近畿遠征の直前の時期だと言えます。

足利義詮は執事・細川清氏の南朝攻撃に際し、鎌倉公方の足利基氏に援軍要請を行い、関東執事の畠山国清が大将となり、軍を近畿に派遣しました。

この直前の時期であり、鎌倉府では近畿に大軍を派遣している間に、新田義興に乱を起こされては溜まらないと考えていた可能性があります。

鎌倉府では関東遠征の前に徹底的な新田義興の捜索が行われたのではないかともされています。

こうした中で、新田義興の自害に繋がったのではないかとも考えられるわけです。

史実でも新田義興の存在は、鎌倉府を転覆させる可能性があるとし、危険人物として認定されていたのでしょう。

尚、新田義興が亡くなったとされる矢口の渡には、新田神社が建てられ新田義興の遺骸が祀られていると言います。

名前住所電話番号
新田神社東京都大田区矢口1丁目21−2303-3758-1397

新田義興と怨霊

竹沢右京亮と江戸遠江守は新田義興を討ち取った事で、多くの恩賞を得ました。

しかし、太平記には新田義興の亡霊が現れ、馬から落ち、その場は逃れますが、七日間も苦しみ叫びなくなったとあります。

畠山国清も不思議な夢を見ており、側近に夢の内容を語ると、雷が落ちて入間川で大きな損害を出す事になります。

太平記では新田義興の怨霊の話が書かれました。

新田義興の墓

愛宕神社(入間市)

新田義興の墓は各地にあります。

新田義興の首は入間市の愛宕神社に葬られたとされており、この場所に首塚があります。

さらに、新田義興と亡くなったとされる13人の墓もあり、十三塚とも呼ばれています。

名前住所電話番号
愛宕神社(入間市)埼玉県入間市豊岡3丁目7−3204-2964-6585

威光寺(太田市)

太田市の威光寺に新田義興の遺髪を祀ったと言う伝承があります。

威光寺は1330年に開創された寺院であり、新田義宗の子の横瀬貞氏の時に、威光寺の名付けられたと言います。

威光寺の名前の由来は新田義興の法名である『威光寺殿正英大居士』から来ているとされています。

これにより威光寺は新田氏の祈願寺となり、義興の墓が造られたのではないかとされているわけです。

名前住所電話番号
威光寺群馬県太田市由良町9250276-31-1711

長楽寺(幻の墓)

近世に成立した上野名跡志によると、長楽寺に新田義興の祠があったと伝えています。

長楽寺の境内にあった「子方明神」が新田義興の祠だったと言います。

名前住所電話番号
長楽寺群馬県太田市世良田町3119−6 長楽寺0276-52-1035

新田義興の動画

新田義興のゆっくり解説動画となっています。

この記事及び動画は南北朝武将列伝、足利氏と新田氏、新田三兄弟と南朝を元に作成しました。

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