王叡は正史三国志に登場する人物です。
正史三国志の注釈・王氏譜によれば、王叡の字は通耀であり、西晋の太保・王祥の伯父であると伝わっています。
さらに言えば、王叡の父親は王仁であり、弟には王融がいる事が分かっています。
王叡は荊州刺史になった人物であり、霊帝死後に董卓が実権を握ると反董卓連合に参加する為に動いた人物です。
しかし、孫堅の事を軽く見ていた事が禍し、孫堅により自害に追い込まれています。
今回は反董卓連合に参加しようとするも、無礼な態度が禍し孫堅に殺害されてしまった王叡の解説をします。
尚、王叡を伯父とする王祥は「二十四孝」にも選ばれており、優れた孝心を持った人物だと伝わっています。
王祥の孝の精神はある意味、伯父の王叡を反面教師としたのかも知れません。
零陵・桂陽討伐
王叡に関してですが、正史三国志の本文よりも、裴松之の注釈・呉録に詳しく記載があります。
呉録によれば王叡は孫堅と共に零陵・桂陽の反乱を鎮圧したとあります。
しかし、王叡は孫堅が武官である事から「軽んずる発言が多かった」と記載があります。
それを考えると、王叡は名士であり家柄が低い孫堅を軽んじていたのでしょう。
それに対し、孫堅は涼州の辺章と韓遂の乱で活躍したり、朝廷の高官である張温であっても堂々と意見するなど、実力で成り上がって来た人物です。
荊州でも孫堅は長沙太守となり、区星の乱を短期間で鎮圧しました。
実力主義の孫堅に対し、武官だからと軽く見る王叡は許せない存在だったはずです。
これが後に王叡に対し禍をもたらす事となります。
尚、正史三国志にも王叡が孫堅に対し「平素から礼に欠ける処遇を取って来た」とあり、王叡の孫堅に対する態度は最悪と言ってもよい部類だったのでしょう。
王叡は武陵太守の曹寅と仲が悪かった話もありますが、王叡の態度にもかなり問題があった様に感じています。
反董卓連合に参加
王叡は荊州刺史となりますが、霊帝が崩御すると何進が宦官らに暗殺され、袁紹や袁術が宦官たちを皆殺しにしてしまいました。
こうした混乱の中で、少帝と陳留王(献帝)を保護した董卓が実権を握ります。
袁紹や曹操は董卓に反発し反董卓連合を結成しました。
この時に王叡は荊州で挙兵する事になります。
王叡はこの時に董卓を討つよりも先に、仲が悪かった武陵太守の曹寅と討つと言い出したわけです。
曹寅は黙っていればやられると思ったのか、温毅の檄文を偽り孫堅に送り届けました。
勿論、偽の檄文には王叡を討てと書き示していました。
孫堅は王叡の事を嫌っていたと考えられ、檄文が本当であろうが偽物であろうが、王叡が討てるなら問題ないと考えた可能性もあります。
孫堅は直ぐに王叡を討つために動き出しました。
ただし、孫堅は直線的に攻撃しようとはせず、策を以って王叡を討つ事を考えます。
王叡の最後
王叡は多くの兵士が押し寄せて来た事を知ると、兵士達にやって来た理由を聞きます。
孫堅の兵士は次の様に述べました。
孫堅の兵士「兵たちは戦いの中で苦しんでおります。
しかし、賜わった恩賞だけでは衣服を作る事も出来ません。
刺史様の所に参り、もう少し資金を供給してくれる様にお願いに参りました」
王叡は兵士の要求に対し「私は物を惜しんだりはしない」と述べ、王叡は府庫の中を兵士に見せ納得させようとしました。
兵士達が桜の下まで進んだ時に、王叡は兵士達の中に孫堅がいる事が分かり驚きます。
王叡も孫堅が自分に対し、よからぬ感情を持っていた事は知っていたのでしょう。
王叡は孫堅に対し、次の様に述べます。
王叡「兵士達が勝手に恩賞を要求しているはずなのに、孫太守(孫堅)殿は、なぜ兵士達の中にいるのか」
孫堅は次の様に述べました。
孫堅「案行使者(温毅)の檄文を奉じ貴方を誅殺する為です」
王叡は多いに驚き「私に何の罪があるのだ」と問うと、孫堅は次の様に述べました。
孫堅「事態を看過した事が原因だ」
王叡は自分が助からない事を悟ります。
孫堅は三国志の中でも屈指の肉体の強さを持った人物であり、とても敵わないと判断したのでしょう。
さらに、孫堅の兵も入っており絶体絶命の状況となります。
王叡は孫堅を説得する事を諦め金を梳り、飲み伏せ服毒自殺を図り最後を迎えました。
王叡は孫堅を軽く見た事で、命を落とす事になったとも言えるでしょう。
尚、王叡の後任の荊州刺史には劉表が任命されています。