名前 | 王燭(おうしょく) |
生没年 | 生年不明ー紀元前284年頃に死去 |
国 | 斉(戦国)→在野 |
コメント | 『忠臣は二君に仕えず』で有名になった人物 |
王燭(おうしょく)は、史記の田単列伝に、名前が掲載されている人物です。
元は斉の湣王に仕えていましたが、斉の湣王は王燭の諫めを聞く事はありませんでした。
斉の湣王が王燭の意見に耳を貸さなかった事で、王燭は在野の士となり畑を耕作し、生計を立てる事になります。。
しかし、王燭の賢人としての名は高く、燕にまで轟いていました。
後に斉の湣王は、楽毅率いる合従軍に敗れてしまいますが、王燭は節義を通し、最後は命を絶った話があります。
田単列伝で、田単以外の人物を記載するのは、司馬遷も王燭に対し心にくるものがあったのでしょう。
尚、王燭は「忠臣は二君に仕えず」の言葉でも、有名になった人物です。。
王燭への配慮
史記の田単列伝によれば、燕が斉に大攻勢を掛けた時に、燕の将軍は画邑の王燭が賢人だと聞き、次の様に命令した話があります。
「画邑の周囲、三十里以内に入ってはならない」
燕の将軍は、王燭に対し危害を加えてはならないと命令した事になります。
王燭に対し、配慮を見せた燕の将軍の名前は「燕将」とあるだけで、名前が分かりません。
しかし、燕が斉を攻撃した時に、燕軍の総司令官は楽毅であり、王燭に配慮を見せた将軍派楽毅の可能性もあるでしょう。
それか、劇辛などの燕において、重要なポジションを任された様な将軍を指すのかも知れません。
ただし、燕の将軍は王燭に対し、破格の扱いで将軍に任命しようとした話もあり、燕将は総司令官である楽毅を指す可能性が高い様に思います。
燕将の使い
史記によれば、燕将は王燭に対し、使者を派遣し次の様に伝えました。
「斉の人々は貴方(王燭)を高義な人物だと讃えている。
私は王燭殿を将軍に任じ、万戸侯に封じたい」
燕の将軍は王燭に対し、破格の扱いで燕の将軍に任命しようとしたわけです。
個人的には、これだけの破格の扱いを出来る燕の将軍と言えば、楽毅しかいない様な気もします。
忠臣は二君に仕えず
王燭は燕将の要請に対し、次の様に述べて断りを入れる事となります。
「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえない。
私は斉王様が諫めに従わなかったので、官を辞し野に下ったのです。
現在を見るに、国は敗れてしまい、私は国を保つ事が出来なかった。
燕の兵力に脅されて燕に仕えるのは、夏の桀王を助けて暴虐を行う様なものです。
これなら生きて正義に反する行為を行うよりも、煮られて死んだ方がマシである」
王燭は、その様に言うと首を木の枝に掛けて、死んでしまいます。
史記の田単列伝によれば、王燭は自らを励まし亡くなったとあります。
斉の復興
王燭は亡くなりますが、斉の大夫らは次の様に述べた話があります。
「王燭は市の平民でしかなかったのに、義を守って燕に仕える事をしなかった。
我等は斉から禄を貰い受けている。
私たちが、義に背いていいのだろうか」
王燭の想いが斉の大夫らに伝わったとも言えるでしょう。
斉の湣王は楚の頃襄王が、援軍として派遣した淖歯に殺害されてしまいますが、王孫賈が母親の言葉もあり奮起します。
王孫賈は淖歯を殺害し、斉の大夫らは太史敫の家で、召使いとなり隠れていた法章を見つけ出し、斉王に立てました。
法章が斉の襄王です。
楽毅更迭後に、田単が燕将騎劫を破り、燕に奪われた斉の失地を回復させました。
斉が復興出来たのは、王燭が命を持って節義を通した事も影響している様に感じています。
大袈裟に思うかも知れませんが、王燭がいなければ斉も滅亡していたのかも知れません。
王燭の評価
王燭は賢人とされていますが、具体的にどの様な事を斉の湣王に進言したのかは不明です。
王燭はどちらかと言えば、生き様を持って名が通っていた人なのでしょう。
楽毅と思われる燕の将軍が、王燭がいる画邑に入らない様に述べた話がありますが、似た様な話が始皇帝と安陵君の間でも存在しています。
始皇帝は魏を滅ぼしますが、安陵君が賢人だと聞いており、安陵に入る事を禁じた話があります。
安陵君は唐且を始皇帝に元に派遣し、唐且が士の怒りを見せた事で、安陵君は事なきを得ました。
王燭の生き様は、当時の士の思想を現わしている様にも感じています。
尚、始皇帝も楽毅も賢人を優遇するのは、人々を懐柔する目的も多分にあったのでしょう。
賢人を優遇する事で、兵士を使わずに城を降伏させるなどの狙いがあった様に感じています。
司馬遷は田単列伝で、田単の記述が終わってから、王燭の事を記載しています。
司馬遷も王燭も生き様に関して、想いを寄せる部分が少なからずあったはずです。