雷薄は袁術配下の武将であり、陳蘭と共に灊山にいた話があります。
雷薄は正史三国志の袁術伝に名前が登場し、実在した人物だと言えるでしょう。
三國志演義の雷薄は、袁術の呂布討伐において第四軍を率いて出陣した話があります。
しかし、正史三国志を見る限りでは、雷薄が袁術軍においてどの様な働きをしたのかは、記録がなく分かっていません。
袁術は呂布や曹操に敗れ落ちぶれると、灊山にいた部下の雷薄と陳蘭を頼りますが、雷薄と陳蘭は袁術の受け入れを拒否しました。
これにより袁術は食料が枯渇し、最後は袁紹に帝位を譲り袁譚の元に身を寄せようとしますが、道中で亡くなっています。
それを考えると、灊山にやってきた袁術を受け入れ拒否した雷薄や陳蘭により、袁術の命運は尽きたとも言えそうです。
因みに、廬江で陳蘭、梅乾、雷緒が活動していた話があり、陳蘭と雷緒が共に行動している事から、雷薄と雷緒の同一人物説が存在します。
正史三国志の雷薄
雷薄の正史三国志における陳寿が書いた本文の、記述は下記だけとなります。
※正史三国志 袁術伝本文より
袁術は先には呂布に敗れ、後に太祖(曹操)に大破され、灊山にいた配下の雷薄と陳蘭の元に身を寄せた。
しかし、雷薄と陳蘭は袁術の受け入れを拒否し、袁術はどうすればいいのか分からなくなった。
上記の記述から雷薄が袁術の部下であり、落ちぶれて頼って来た主君の袁術を助けなかった事が分かります。
雷薄や陳蘭が袁術を助けなかった理由ですが、この時の袁術には助けるだけの価値が感じなかったのでしょう。
袁術は皇帝を僭称した事で反感を買っていましたし、逆賊認定されてしまい戦いにも敗れ大きく求心力を失っていました。
雷薄と陳蘭は相談したとは思いますが、袁術を受け入れて逆賊認定され、諸侯から攻撃対象にされても困ると思ったのかも知れません。
雷薄や陳蘭が袁術を受け入れる行為は、逆賊とされ攻撃理由にもなるからです。
袁術からしてみれば、灊山は険しい山々に囲まれており、灊山なら安全と考えたのでしょう。
尚、正史三国志の呉書の注釈を見ると下記の記述も存在します。
正史三国志 注釈・呉書より
袁術は雷薄から拒絶され3日間、その地に滞在した。
しかし、兵卒たちの食料が切れた
袁術は雷薄に拒絶されても3日間は、灊山の付近にいた事になります。
この間に袁術が何をしていたのかは不明ですが、粘り強く雷薄らと受け入れの交渉をしたのかも知れません。
それか、雷薄に拒絶された時点で、正史三国志にもある様にどうすればいいのかも分からず、無駄にその地に滞在した可能性もあるでしょう。
袁術は雷薄と陳蘭に受け入れ拒否した時点で、絶望した可能性が高いと言えます。
この後に袁術は青州の袁譚の元に向かいますが、途中で息を引き取りました。
尚、正史三国志には、これ以降に雷薄の名は登場せず、雷薄の記録は途切れています。
ただし、曹操が任命した揚州刺史・劉馥に従った可能性はあるのではないか?とは感じています。
三国志演義の雷薄
三國志演義には雷薄が袁術軍として呂布軍と戦った記述が存在します。
袁術は帝位に就き皇帝を名乗り、仲王朝を建てた後に呂布を攻撃しました。
この時の袁術は7方面から徐州にいる呂布を攻撃しています。
袁術は張勲、橋蕤、陳紀、雷薄、陳蘭、韓暹、楊奉を将に任じ、それぞれ別の道から徐州に侵攻しました。
張勲が総大将であり、雷薄は第四軍として軍隊を指揮し徐州を目指す事になります。
この時の戦いでは、袁術自身が後軍となり紀霊らと共に出陣するなどしています。
呂布は雷薄に対し、張遼と臧覇に防がせました。
張遼も臧覇も名将と呼ばれた人物であり、手ごわい人物ではありましたが、雷薄とどの様な戦闘になったのかはイマイチ不明です。
袁術軍は韓暹と楊奉が寝返った事で、呆気なく袁術軍は崩壊し、雷薄も撤退するしかなくなってしまったのでしょう。
この後に雷薄は袁術の贅沢ぶりに嫌気が指し、陳蘭と共に灊山の賊の仲間入りを果たしています。
後に袁術が劉備に敗れ完全に落ちぶれると、雷薄は陳蘭と共に困窮した袁術軍を攻撃し、兵糧を奪うなどを行っています。
正史三国志では雷薄や陳蘭は袁術の受け入れを拒否した記述しかありませんが、三国志演義では自ら進んで袁術を襲撃し兵糧を奪った事になります。
尚、三国志演義では袁術軍は、さらに賊の略奪にあい袁術が血を吐いて亡くなる事になるわけです。
因みに、三国志演義でもこれが雷薄の最後のシーンであり、これ以降は登場しません。