春秋戦国時代

馮忌(ふうき)は攻める難しさを説く

2022年7月7日

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宮下悠史

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名前馮忌(ふうき)
生没年不明
時代戦国時代

馮忌は戦国策の趙策に名前が見られる人物です。

戦国策では平原君を攻撃しようと考え、手始めに上党を攻撃しようとしますが、馮忌は「攻めるに難く守るに易い」を説いた人物です。

平原君は馮忌の進言を聴き入れ、上党や燕への攻撃を中止しました。

これが馮忌の逸話なのですが、この話を逆手に取り、燕がを攻撃し、趙が燕を大破した話に繋がっている様にも思います。

この話が何年頃の話なのかは記載がなく分かりませんが、長平の戦い後から紀元前251年に平原君が亡くなるまでの間の出来事だった事は確実でしょう。

因みに、春秋戦国時代を題材にした漫画であるキングダムで、馮忌が将軍になっている記述がありますが、これは史実にはない設定です。

ただし、馮忌は史実でも智慧があり、将軍になったとしたらキングダムの設定と同様に知将となっていた事でしょう。

平原君の燕攻撃策

戦国策の趙策に平原君が馮忌に向かって、次の様に述べた話があります。

※戦国策・趙策より

平原君「私は北の上党を攻撃し、兵を出して燕を攻撃しようと思うが、どうであろうか」

平原君は馮忌に上党を攻撃した上で、に兵を進めたいと述べたわけです。

この逸話は長平の戦いの後の話であり、の領土だった上党は一度はの領土となるも、邯鄲籠城戦で秦が敗れた事で、秦は2年で上党を手放したと伝わっています。

上党はに服する形になった様ですが、趙が長平の戦いで破れている事もあり、上党が不安定で、趙からも離反する動きを見せたのではないか?とも考えられています。

平原君としては後顧の憂いである上党を征伐してから、燕に兵を進めたかったのでしょう。

攻めるに難く守るに易い

馮忌は平原君の上党とを攻撃する案に対し、次の様に異議を唱えました。

馮忌「それはいけません。秦の武安君白起が7戦7勝の勢いに乗り、馬服の子・趙括と長平で戦い多いに趙軍を破りました。

秦は余勢で趙の首都邯鄲を包囲しましたが、趙は敗残兵であるにも関わらず守り切ったのです。

趙が秦の攻撃を防ぎきる事が出来たのは『攻めるに難く守るに易い』からでしょう」

馮忌は平原君に守る方が有利だと述べた事になります。

城に籠城する場合は、堀や柵があり防御施設を使う事が出来る為、どうしても守備側が有利になるわけです。

日本でも城を攻めるには守備側の10倍の兵がいると述べた話しもあり、防御側の有利さを示す言葉もあります。

実際に、長平の戦いで敗れた趙括が45万の兵士を失う大敗北を喫していますが、邯鄲籠城戦では平原君を中心に守り通す事が出来ました。

馮忌は城攻めを行う場合は、防御側が絶対的に有利だと説いたわけです。

燕を攻撃してはいけない理由

馮忌は、さらに続けてを攻撃してはいけない理由を平原君に述べました。

馮忌「現在の趙は7戦7勝の勢いがあるわけではなく、燕に長平での禍があったわけでもございません。

それに、現在の趙は7戦7敗の痛手から、立ち直ってはいないはずです。

疲れが出ている趙兵を用い、強き燕を攻める事になります。

これは弱き趙が強き秦の真似をするのであり、趙が燕を攻めたならば、秦が休養した軍を用いて、趙を攻める事になるでしょう。

これこそが強き呉が滅び、弱き越が覇を唱えた理由です。

これを考えるに、私は趙が燕を攻める事には賛同しかねます」

馮忌は平原君に長平の傷が癒えていないが、燕を攻めるのは得策ではないと述べた事になります。

馮忌は、呉王夫差と越王勾践を例に出し、燕を攻める難しさを言ったわけです。

さらに、趙が燕を攻めれば、がその隙に趙を攻撃すると述べました。

馮忌の言っている事は正論であり、平原君も納得しています。

これにより平原苦は、上党や燕に兵を出すのは諦めたのでしょう。

尚、趙の悼襄王の末年である紀元前236年に、趙の龐煖が燕を攻撃し、秦はその隙に、王翦楊端和桓齮の三将が鄴攻めを行いました。

結果として、趙は太行山脈の西側を失い、馮忌の言ったような展開になってしまいました。

これは時代が経ち、馮忌の言葉が忘れられた結果なのかも知れません。

燕の趙攻めについて

平原君は紀元前251年に亡くなっていますが、この年にを攻めた事が分かっています。

燕の宰相の栗腹は使者として趙に行った時に、趙が弱いと判断し、燕王喜に趙攻めを勧めたわけです。

栗腹は自ら将軍となり、後軍として燕王喜も出陣しましたが、趙の廉頗により大敗北を喫しました。

平原君と馮忌の話だと、守る方が容易いから燕を攻めてはいけないとの事でしたが、逆に趙は燕に攻めさせたとも言えます。

もしかしてですが、燕を趙に攻めさせたのは策であり、平原君が馮忌と共に死ぬ前に、提案した謀略だったのかも知れません。

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