名前 | 盧生(ろせい) |
生没年 | 不明 |
主君 | 始皇帝 |
コメント | 秦の方士 |
盧生は史記の始皇本紀に登場する人物であり、燕国出身の方士です。
始皇帝は盧生に仙人の羨門高を探し出す様に命令しました。
しかし、盧生は仙人に会うことが出来ないと述べ、始皇帝には真人になる様に勧めています。
始皇帝は真人になる為に、自分の居場所を秘匿にしました。
それでも、盧生は仙人に出会うことが出来ず、預言書を見つけたと述べ蒙恬が匈奴を攻撃するなどもありました。
これらを考えれば、盧生が秦の政治に大きく関わったと言えるでしょう。
しかし、盧生は最後に侯生と共に始皇帝の政治や人柄を批判し逃亡しています。
これに激怒した始皇帝が儒者を生き埋めとし、焚書坑儒の「坑儒事件」が起きる事になりました。
この後に扶蘇が始皇帝を諫めて北方の蒙恬の元に送られている事を考えれば、盧生が秦に与えた影響は大きいと言わざるを得ないでしょう。
仙人を探す
盧生が史記の始皇本紀に最初に登場するのは、始皇32年です。
始皇32年(紀元前215年)に次の記述が存在します。
※史記 始皇本紀より
始皇は碣石山に行き燕人の盧生に仙人の羨門高を探させた。
始皇帝の32年は天下を巡遊している最中であり、盧生は始皇帝の命令により仙人の羨門高なる人物を探させた事になります。
始皇帝は既に徐福にも不老不死の仙薬を取りに行かせており、盧生が向かわせており、始皇本紀の書き方だと始皇帝が不老不死に熱中していた事が分かるはずです。
しかし、普通に考えて仙人がいるはずもなく、盧生は難題を吹きかけられたとする見方もあります。
別の味方をすれば、盧生は詐欺師であり、始皇帝から金を貪り取ろうとしたとみる事も出来ます。
蒙恬の匈奴討伐
始皇帝は秦の首都である咸陽に戻りますが、ここで盧生は海上から戻り始皇帝に使者を派遣しました。
盧生が海上から戻った記述があり、盧生は仙人の羨門高を探す為に海に出た事が分かります。
盧生は始皇帝に羨門高に出会う事は出来なかったが、記録の図書を見つけ出し、その中に次の文字があったと伝えました。
秦を滅ぼす者は胡なり。
始皇帝は「胡」を北方の異民族だと解釈し、蒙恬に30万の兵を預けて匈奴討伐を行わせています。
蒙恬は匈奴を相手に大勝し、匈奴は勢力を後退させています。
尚、盧生が言った「胡」は後の事を考えれば、匈奴ではなく始皇帝の末子である胡亥の事でしょう。
普通で考えれば、盧生は不老不死の薬や仙人が見つからない言い訳として述べた嘘の話となりますが、後の事を考えれば的中している事になります。
盧生の発言が始皇帝の政策を大きく動かしている事が分かるはずです。
ただし、秦では天下統一の為に多くの兵士がいましたが、統一後に多くなりすぎた兵士をどうすればいいのか?という問題がありました。
世界史を見ると兵士の数が膨張し過ぎた為に、他国に攻撃を仕掛ける例は多くあり、始皇帝も盧生の言葉とは関係なく、増えすぎた兵士に仕事(戦争)を与える為の匈奴征伐だったとする見解もあります。
真人
始皇帝35年に盧生は、始皇帝に真人になる様に勧めた話しがあります。
盧生は始皇帝に仙人や仙薬を探してはいるが、一向に見つからないと述べました。
盧生は自分が仙人に出会えないのは、始皇帝が真人になれていないからだと諭しました。
始皇帝は盧生の言葉を聞くと、自分も真人になりたいと考え、自らを「朕」と呼ぶのをやめて「真人」と呼ぶ様にしたと言います。
さらに、盧生は真人になるには、人に居場所を知られてはならないと述べました。
始皇帝は盧生の話を聞くと実行に移し、自分が行幸する場所を言った者は死罪にしたとあります。
これを見る限りでは、盧生は始皇帝を掌の上で転がしていると言えます。
盧生の逃亡
盧生は始皇帝の念願である不老不死の為に、動いている様には見えますが、現実的に考えて不老不死は不可能でしょう。
盧生の方でも「いつかはバレる」と思ったのか、逃亡を考える様になります。
盧生は侯生と共に、始皇帝の人柄が傲慢な事や自分程優れた者はいないと自惚れていると指摘し、驕り高ぶっていると述べました。
さらに、盧生と侯生は始皇帝の政治を批判し天下に告げ逃亡したわけです。
盧生と侯生が逃亡した事を知ると、始皇帝は激怒しました。
始皇帝としては大金を出して盧生、侯生、徐福、韓終、侯公、石生ら方士を重用したのに、誰も成果を挙げる事が出来ず、一部の方士が逃亡した事に激怒したわけです。
激怒した始皇帝は役に立たない方士を生き埋めとし、一部の儒者も巻き込まれ、これが焚書坑儒の「坑儒」に繋がる事になります。
尚、侯生と共に逃亡した盧生がこの後にどの様になったのかは不明です。
盧生の人物像
盧生は始皇帝32年(紀元前215年)に登場し、始皇35年(紀元前212年)には逃亡しています。
それを考えれば、盧生が始皇帝の元で活躍した期間は、僅か3年しかありません。
しかし、その間に坑儒や蒙恬の匈奴征伐を行い、始皇帝の焚書坑儒を諫めた扶蘇は北方に飛ばされました。
これを考えれば、盧生が秦に与えた影響は大きいと言わざるを得ないはずです。
尚、盧生は始皇帝から大金を貰いながらも、悪口を言いふらして逃亡したとみる事も出来るため「ロクな人間ではない」とする評価もあります。
盧生にしても仙人がいたり、不老不死の仙薬が本当にあるのか信じて行動していたのかは疑わしい部分もあります。
そもそも、始皇帝が韓非子の信者だった事は有名ですが、韓非子には「不老不死を成し得た者はいない」としており、始皇帝が本当に不老不死を目指したのかも疑問符が付きます。