嫪毐は男性の一物を武器としてのし上がったという歴史上珍しい人です。
嘘のような話に聞こえるかも知れませんが、史記にも嫪毐は巨根で車の車輪をあそこで回す事が出来たと記載があるわけです。
そのヘンテコ?な芸を持った嫪毐がどのようにして栄進して行ったのか解説します。
尚、嫪毐に連座して呂不韋も失脚していますし、秦王政の母である趙姫(美姫)にも影響を及ぼしました。
秦の皇室の一大スキャンダルとなった話です。
荘襄王亡き後に趙姫が欲求不満に陥る
呂不韋は荘襄王を「奇貨居くべし」と考えて補佐する事にしました。
趙で冷遇されていた秦の公子(当時の名は異人)だった荘襄王は呂不韋を後ろ盾にした事で華陽夫人の養子となり秦王になる事が出来たわけです。
その時に、呂不韋の妾であった趙姫を荘襄王は望んだわけですが、呂不韋は不快に思いながらも荘襄王に献上します。
趙姫が産んだのが後の秦の始皇帝である秦王政です。
荘襄王は秦の王位に就くわけですが、わずか3年で亡くなってしまいます。
この事から趙姫は下々の事に対して欲求不満に陥ってしまうわけです。
趙姫は秦王政の母親であり大后でもありますから、みだらな事は出来ません。
仕方なく呂不韋の元を訪れたりして密通を繰り返したわけです。
しかし、これが公になってしまえば呂不韋も失脚を免れませんし、趙姫との関係を清算したいと思っていました。
清算するために送り込んだのが嫪毐(ろうあい)という男です。
嫪毐と趙姫を引き合わせる
呂不韋は、ある宴席で嫪毐の存在を知ります。
男性の大事な部分を使い車の車輪を回す事が出来るという、凄い特技?を持っていたわけです。
普通で考えれば、車輪を回した時に、擦れて痛くなかったのか?や、そんなに大きいのであれば、女性との関係において大きすぎて使い物にならないのではないか?とも思えるわけです。
しかし、呂不韋は嫪毐の股間が使い物になると判断して趙姫の耳に入るように情報を入れます。
呂不韋は荘襄王を「奇貨居くべし」と判断したわけですが、嫪毐の股間を見た時にこれも「奇貨居くべし」と判断したのかも知れません。
※「奇貨居くべし」・・珍しい物を仕入れておくと後に財産になる事
趙姫と嫪毐の関係が始まる
趙姫は性欲旺盛な女性だったようで、嫪毐にたちまち興味を持ちます。
しかし、趙姫は大后で後宮にいます。
後宮には、普通の男性は入る事が出来ません。
宦官と呼ばれた去勢された男性しか入る事が出来ないわけです。
そこで、呂不韋が上手く取り計らったのか、嫪毐は宦官になった事にしてしまい趙姫に送り込んだわけです。
嫪毐の巨根を趙姫は気に入り肉体関係を延々と続ける事になります。
嫪国を建国
嫪毐ですが、趙姫に気に入られた事で次々に出世していきます。
長信侯に封じられて自分の土地を持つことも出来ましたし、関中の外である太原郡に嫪国まで作ってしまいました。
さらに、食客も多く呂不韋に匹敵するだけの権力を嫪毐が持つことになりました。
絶頂期の嫪毐であれば、中華での権勢は楚の春申君よりも上で栄えていた事でしょう。
当時の秦の大臣達は呂不韋に付くべきか、嫪毐に付くべきかで大いに揺れていたと言う話が残っています。
尚、嫪毐と趙姫との間には二人の子を授かっています。
嫪毐はキングダムだと巨根だけが取り柄の気の小さい男として取り上げられていますが、実際にはイケメンであったかも知れません。
それゆえに、趙姫もはまってしまった可能性もあるでしょう。
女性がホストクラブの男性にハマってしまうのと似たような事が起きた可能性もあるのではないかと思っています。
ただし、史書には嫪毐が容姿が優れていたなどの表記はないため、あくまでも私の想像です。
尚、余談ではありますが、嫪毐が嫪国を作った太原郡には晋陽もあり、趙国の祖とも言うべき趙襄子が智伯を破った因縁の土地でもあります。
趙では重要な都市でもあったわけです。
太原郡が秦の都市になっている事で、趙の凋落を感じずにはいられませんでした。
尚、晋陽は紀元前246年に秦の蒙驁が趙を攻撃し得た土地とも考えられています。
嫪毐の乱
嫪毐は国まで作ってしまいますが、さらに野望が広がったのか、趙姫が裏で暗躍したのかは分かりませんが、秦王政を排除して秦を完全に手中に収めようと考えました。
趙姫と自分との子供を秦王につける事を考えたのかも知れません。
嫪毐は趙姫との関係がバレてしまえば失脚するのは確実です。
そのため、先に手を討って反乱を起こしたのかも知れません。
しかし、嫪毐は緻密な作戦を立てる事が出来ずに、結局は昌文君や昌平君によって鎮圧されてしまいました。
さらに、嫪毐は捕らえられて処刑されています。
この時に、趙姫と嫪毐の間に生まれた子供たちも処刑されていますし、趙姫は幽閉される事になったわけです。
キングダムだと、秦王政は密かに嫪毐と趙姫の子供を生かした事になっていますが、史実ではそういう記録は残っていません。
秦王政は女性不振のようなところも見受けられますので、趙姫が原因でそうなってしまった可能性もあるでしょう。
尚、キングダムでは趙高が嫪毐の乱に関係している事になっていますが、そういう史実の記録はありません。
後に趙高が秦を腐敗させてボロボロにしてしまう事を考えれば、キングダム読者であれば「あの場所で殺しておくべきだった」と考えた人も多かったのではないでしょうか。
余談ですが、キングダムの話しのように、嫪毐の乱と楚が関係していた記録も史実にはない話です。
因みに、嫪毐が処刑されたのは紀元前238年であり、前年である紀元前239年は成蟜の乱があった年でもあります。
嫪毐は慌てて反乱を起こしたイメージもありますが、嫪毐と手を組んで秦に反旗を翻すなどを行えば、違った展開になってきたのかも知れません。
呂不韋が失脚する
嫪毐が処刑されただけでは、済まされませんでした。
呂不韋が後宮の趙姫に嫪毐を送り込んだ事も明るみになってしまったわけです。
これにより呂不韋は失脚してしまいます。
秦王政もこの時には22歳になっていたので、政治は自分で見るようにしたかったのかも知れません。
秦王政に取ってみれば呂不韋は父親の代から使える功臣ですし、自分の父親を秦王にさせた手腕もあるので排除したくても難しかったはずです。
嫪毐の乱により、秦王政は確実に法治国家や中央集権国家を邁進することになりました。
呂不韋の思想を反映したとも考えられている、呂氏春秋とは別の方向に秦は進む事になります。
趙姫の最後
趙姫は幽閉されましたが、時間が立つと共に秦王政の怒りの感情が薄れたのか幽閉を解除されています。
趙姫の最後ですが紀元前228年に死去したと記録に残っています。
秦が趙の幽穆王の寵臣である郭開を買収して李牧を殺し趙を滅ぼした年です。
ちなみに、趙の首都である邯鄲を陥落させると、秦王政は自ら邯鄲に乗り込んでいき、自分が小さい頃に趙姫や家族を粗略に扱った連中を徹底的に復讐しているわけです。
秦王政が邯鄲の民を弾圧したのが先か、趙姫が死亡したのが先かは分かりませんが、趙姫がこれを見てどう思ったのかは定かではありません。
しかし、趙姫も呂不韋の妾から始まり始皇帝の母親になるわけですから激動の人生だったと言えるでしょう。
尚、趙姫は始皇帝により帝太后を追号されています。
趙姫は男から見れば魅力を感じる
余談ですが、趙姫は美人ですし、男から見れば色っぽくて、かなり魅力的に見えるのではないでしょうか?
悪女として描かれる事もありますが、魅力的な悪女に見えるわけです。
キングダムでは、呂不韋が生涯惚れていたような話もしていますし、その気持ちも分かるような気がします。
嫪毐とは不倫でしたが、ちょっとしたラブストーリー?があったのもよかったです。
キングダム作者の原泰久先生の不器用な嫪毐と色っぽい趙姫が非常に上手く描かれていると思いました。
二人に子供が出来たりして、趙姫に心に変化が生まれる辺りは見どころがあったように思います。