春秋戦国時代

秦の荘襄王は趙への人質(捨て駒)から王になった人物

2021年6月2日

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宮下悠史

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秦の荘襄王は、天下統一した始皇帝の父親であり、に人質に行っていた人物です。

秦の荘襄王が秦国の王族とは思えない貧乏暮らしをしていた事に気が付いた、呂不韋のバックアップにより秦王になったとも言えるでしょう。

呂不韋が荘襄王を「奇貨おくべし」と判断した事で、人生が変わった人でもあります。

尚、荘襄王は、趙での人質時代の名前は「異人」で、華陽夫人の養子になった時は「子楚」、秦王になった時は「荘襄王」と呼ばれています。

奇怪とも言える人生を歩んだ、荘襄王がどの様な人物なのか解説します。

人質に出される

異人(荘襄王)の父親は、公子柱(安国君)であり後の秦の孝文王です。

異人の母親は夏姫と呼ばれていましたが、孝文王から寵愛されておらず、異人はへの人質に出される事になります。

趙では太子を人質に出したりしていますが、秦は趙に異人を人質に出しています。

趙の太子(後の悼襄王)と異人の人質交換と聞くと、異人は趙では不自由のない暮らしをしていた様に思うかも知れません。

しかし、秦は趙に人質である異人を出しているにも関わらず、趙を攻撃して来るわけです。

人質としての役目を果たさない異人に対し、趙では冷遇し、秦からの援助も少なかった事で、異人は不便な生活を送っていました。

この時に、たまたま大商人の呂不韋が趙の首都である邯鄲に行き、異人を見かける事になります。

呂不韋の援助で道が開ける

呂不韋は邯鄲で異人を見ると、憐れんだ話があります。

そして、異人を奇貨(掘り出し物)だと判断します。

呂不韋は異人を訪ねると、次の会話があったとされています。

呂不韋「私があなたの門戸を盛大にしてあげたいと思います。」

異人は笑って次の様に答えます。

異人「まず君(呂不韋)の門戸を盛大にした上で、私の門戸も盛大にして貰おう」

呂不韋「あなたは分かってはいないのです。私の門戸は、あなたの門戸が盛大になるにつれ、盛大になって行くのです。」

偉人は呂不韋の言葉を理解し、奥に招き入れ話を聞く事にします。

呂不韋「秦の昭王は高齢であり、安国君(公子柱)が太子となられましたが、寵愛する正夫人の華陽夫人との間に子がいません。

安国君は太子を定めなければいけませんが、華陽夫人の心ひとつに掛かっているのです。

安国君の子は20人もいて、あなた(異人)は、中頃の子であり、可愛がられもせず長く趙への人質となっています。

もし、秦の昭王様が薨去され、安国君が即位したら、長兄や秦の咸陽の都にいる公子らと太子の座を争う事は出来ないでしょう。」

異人「私は秦の公子とはいえ生活は貧しく、今のままでは太子になれないが、どうすればよいだろうか。」

呂不韋「あなたは、貧しく趙への人質になっている事から、親に奉孝する事も出来ませんし、賓客と交わりを結ぶのも難しいと思います。

私が千金を使って、あなたの為に西遊し安国君と華陽夫人に取り入り、あなたが太子になれる様に仕向けたいと存じます。」

異人「もしそなたの計画が上手く行き、私が秦王になれたのなら、私と其方で秦を折半したいと思う。」

異人は、呂不韋の考えに合意したわけです。

呂不韋は異人に、500金を与えて賓客との交際費とし、残りの500金で珍奇な物を買い集め、秦の首都である邯鄲に呂不韋は向かう事になります。

呂不韋は異人に先行投資をしたわけです。

異人が太子となる

異人は呂不韋のでの活動が実を結び太子となります。

華陽夫人を説得

呂不韋は秦に到着すると華陽夫人の姉と会い、華陽夫人との面会を取り計らって貰う事になります。

呂不韋が買い揃えた珍奇は物は、全て華陽夫人に献上し、次の様に述べます。

呂不韋「趙の人質になっている異人は賢くて知恵があり、天下の諸侯の賓客と交わりを結んでいます。

異人は華陽夫人の事を「我が心の天」とし、慕っておられ、いつも太子(安国君)と華陽夫人を慕い涙をこぼしています。」

この言葉に、華陽夫人は喜びます。

華陽夫人が異人に好感を持つ事になります。

異人が華陽夫人の養子となる

呂不韋は華陽夫人の姉に頼み込み、華陽夫人を説得して貰います。

華陽夫人の姉は、「容姿で仕える物は、容姿が衰えれば寵愛が薄れる」と、華陽夫人に述べます。

華陽夫人も秦の太子である安国君との間に、子が出来ない事を悩み不安におもっていたわけです。

ここで華陽夫人の姉は、異人が多くの賓客と交わっている事や、異人の母親である夏姫が安国君に寵愛されていない事などを述べ、異人を華陽夫人の養子にする様に促します。

華陽夫人も姉の言葉を聴き入れ、タイミングを見計らい安国君に異人を自分の養子にしたいと申し出る事になります。

安国君が納得した事で、異人は華陽夫人の太子となったわけです。

呂不韋の妾を譲り受ける

呂不韋はの首都である邯鄲に行き異人に報告する事になります。

当時の呂不韋は邯鄲にいた養子の優れた女性である趙姫と同棲していたわけです。

資治通鑑によれば、趙姫は邯鄲で一番の美人だったとする記述もあります。

異人は趙姫を見ると、一目ぼれしてしまい、呂不韋に趙姫を譲って欲しいと持ち掛けます。

呂不韋は異人に苛立ちますが、ここで拒否してしまうと、異人を秦王にする計画が崩れてしまうと判断し、趙姫を異人に譲る事にしました。

趙姫は嬴政を生みますが、嬴政が後に戦国七雄の国々を滅ぼし天下統一し始皇帝を名乗る事になります。

尚、史記の呂不韋伝によれば、呂不韋が異人に趙姫を譲る前から、身籠っていた話があり、これが真実であれば始皇帝の父親は呂不韋になります。

ただし、12カ月して嬴政を生んだ事も書かれていて、日時を考えると異人の子だと主張する人もいます。

因みに、趙姫が嬴政を生んだのは、紀元前259年だとされています。

異人が秦に戻る

趙姫が嬴政を生んだ頃は、秦との中は最悪だったわけです。

秦と趙の間で、長平の戦いが起こり、秦の白起が趙の趙括を破り、趙の兵士40万を生き埋めにしてしまったわけです。

長平の戦い後に、蘇代が秦の宰相である范雎の心を揺さぶった事で、秦と趙は和議を結ぶ事になります。

しかし、翌年には和議は決裂し、秦の王齕、王陵、鄭安平などが趙の首都邯鄲を囲む事になりました。

この時に、趙は秦からの人質になっていた異人を処刑しようと考えます。

呂不韋としては、異人が殺されてしまったら計画が台無しになる為、見張りの役人を金600斤で買収し、異人を秦軍に逃げ込ませる事になります。

ただし、ここで秦軍に逃げ込んだのは、異人だけであり、息子の嬴政や趙姫は趙に残った様です。

尚、呂不韋列伝には、異人の夫人は、趙の豪家の娘だったので、隠れる事が出来、趙姫も嬴政も生き残る事が出来たとあります。

これを考えると、始皇帝の母である趙姫は、資産家の豪族の娘だったのかも知れません。

異人は秦に戻ると、正式に華陽夫人の養子となり、子楚を名乗る事になります。

子楚が秦の太子となるや、趙は趙姫や嬴政を丁重に秦に送り返した話もありますが、嬴政は後に趙を滅ぼした時に、趙の邯鄲で恨みがある者を穴埋めにしているわけです。

それを考えると、最後は趙で丁重に扱われましたが、嬴政の虐められた恨みは消えなかったのでしょう。

秦の太子となる

紀元前251年に秦の昭王が亡くなると、太子の安国君が秦王に即位する事になります。

安国君は、秦の孝文王となり子楚を太子に指名しました。

これにより子楚は、秦の太子となり、次期秦王を約束された事になります。

秦王に即位した孝文王ですが、服喪が終わると僅か3日で薨去してしまいます。

これにより、子楚が秦王となります。

これが秦の荘襄王です。

荘襄王の実績

子楚は、への捨て駒とも言える人質から、秦王(荘襄王)に即位する事になります。

荘襄王の実績などを解説します。

荘襄王が即位

史記の秦本紀によれば、荘襄王は即位すると、大赦を出し罪人を赦し、先王の功臣を丁重に扱い、肉親を厚遇したとあります。

さらに、民に対しても恵みを施したとあります。

荘襄王のこれらの行動は、善政を行った様にも見えますが、実際には秦の孝文王も似た様な事を行っており、秦王が即位した時の恒例行事でもあったのでしょう。

孝文王は服喪が終わり即位して3日でなくなっている為、恩赦で救われた罪人の数も少なかった様に思います。

呂不韋を宰相にする

秦の荘襄王は、自分を秦王にしてくれた呂不韋を丞相に任じて報いる事になります。

さらに、呂不韋に河南洛陽の10万戸を食邑として与える事にしました。

呂不韋は文信侯となり、秦の大臣の中で最も尊貴な身分になったわけです。

尚、子楚が荘襄王になった事で、養母の華陽夫人は華陽大后となり、夏大后と称する事になります。

荘襄王は呂不韋、華陽夫人、夏姫を丁重に厚かったと言えるでしょう。

東周を滅ぼす

荘襄王が即位すると、東周の君が諸侯と共に秦を攻撃しようとした話があります。

既に、秦の昭王の時代にが西周に迫った事で、西周は滅び周の赧王は秦の保護下に入り亡くなっています。

周王は既にいませんが、東周の君がおり、諸侯と連携し秦を攻撃しようとしたのでしょう。

史記によれば、荘襄王は相国の呂不韋に命じて、東周を討たせ東周の領地を秦は手に入れる事になります。

ただし、荘襄王は東周の君を処刑せず、陽人の地を与え祭祀は継続させています。

荘襄王が滅ぼした君主を殺害しないやり方は、秦王政にも引き継がれたのか、秦王政も戦国七雄の国々は滅ぼしますが、王を処刑した記述がありません。

この流れは荘襄王の時代の流れを継承したと言えそうです。

蒙驁の活躍と敗北

秦の荘襄王の時代に文官の中心人物が呂不韋なら、将軍の中心人物は蒙驁(もうごう)だと言えます。

荘襄王は蒙驁にを討たせ、韓は成皋と滎陽を秦に献上した話があります。

成皋は韓の首都である新鄭を攻撃出来る拠点となる場所であり、これにより秦は韓をいつでも滅ぼせる様な状態になったとも言えます。

史記には秦の境界は、大梁に至ったとあるので、の首都も侵攻できる場所を確保したのでしょう。

蒙驁は魏やとの戦いにも勝利し、多くの土地を奪っています。

秦の昭王や荘襄王時代の代表的な将軍と言えば、王齮だと思っている人もいるようですが、史実では王齮よりも蒙驁の方が功績があったはずです。

しかし、荘襄王の末年に魏の信陵君からなる合従軍を率いて、秦に攻め込んできたわけです。

秦は蒙驁を大将にして黄河の南で迎え撃ちますが、信陵君の采配が冴えわたり蒙驁は敗退しています。

信陵君は函谷関まで、攻め上りますが、ここで引き上げています。

荘襄王の最後

荘襄王は、即位して3年で亡くなったとも4年で亡くなったとも伝わっています。

短い政権だった事は明らかなのでしょう。

荘襄王の死因に関しては、よく分かっていません。

病気で亡くなったのか、当然倒れたのかも分からない状態です。

ただし、秦の荘襄王は35歳で亡くなった話もあり、死ぬのには早い年齢だった様に思います。

荘襄王が亡くなると、子の嬴政(秦王政)が即位しますが、まだ子供であった為に呂不韋が政治を行う事になります。

尚、秦王政の母親である趙姫は荘襄王亡き後に、嫪毐(ろうあい)という偽宦官の愛人を作り子を設け、嫪毐は反乱を起こしますが、昌平君昌文君により鎮圧されています。

嫪毐の乱には、呂不韋も連座し、呂不韋の最後は秦王政により、蜀に行くように命令され道中で毒を飲み亡くなりました。

呂不韋は荘襄王を見て奇貨だと判断しなければ、歴史に名を残す事はなかったと思いますが、大商人として人生を終えていた可能性もあるでしょう。

荘襄王と関係が深い秦の王族

荘襄王と関係が深い秦の王族を解説します。

嬴政

嬴政は荘襄王の後継者となり、秦王に即位した人物です。

秦王政と呼ばれる事になります。

荘襄王と趙姫の間に出来た子であり、後に戦国七雄の国々を滅ぼし天下統一します。

天下統一後は始皇帝を名乗り、小篆、度量衡、半両銭などの国をスムーズに運営する為の統一事業も行っています。

蒙恬に命じて万里の長城を建設した事でも有名です。

ただし、諸子百家の書を燃やす焚書坑儒や、始皇帝が崩御した秦が僅か4年で滅びている事から評価が別れる人物でもあります。

尚、荘襄王は趙姫が嬴政を生んだ時に、「この子が秦の統一戦争を成就させ天下統一する」とは思わなかった事でしょう。

成蟜

成蟜(せいきょう)は始皇帝の弟とする記録があり、荘襄王の子で始皇帝とは腹違いの弟になるでしょう。

成蟜の母親が誰なのかは分かってはいません。

成蟜は長安君と呼ばれる場合もあります。

成蟜は紀元前239年にを攻撃しますが、そのまま趙に寝返ったのか秦に反旗を翻します。

しかし、結局は秦王政に討伐され、成蟜は亡くなっています。

子傒

子傒は安国君の子であり、安国君が太子に指名された時は、太子になる最有力候補だった話があります。

しかし、呂不韋の思惑が入り、華陽夫人の養子に子楚が入った為に、子傒は太子の座を得る事が出来ませんでした。

呂不韋のせいで秦王になる事が出来なかった人物とも言えるでしょう。

子嬰

子嬰は最後の秦王であり、項羽に処刑された事で秦は滅亡する事になります。

史記の李斯列伝では、子嬰が始皇帝の弟だとする記述があります。

始皇帝の弟であるならば、子嬰は荘襄王の子になるでしょう。

しかし、史記の六国年表や始皇本紀では、胡亥の兄の子と言う事になっています。

荘襄王が胡亥の兄の子であるならば、子嬰は荘襄王の玄孫になります。

子嬰は趙高の事を「節操無き者」と批判したり、李斯や蒙恬、蒙毅、章邯(しょうかん)など、趙高が粛清対象にした人物を庇った記述もあります。

それにも関わらず、最後まで胡亥や趙高の粛清対象にならず、生き延びたのは不思議な部分にも感じました。

ただし、子嬰が秦王になってから46日後に劉邦により咸陽を落とされ、項羽にが滅ぼされた事は間違いなさそうです。

荘襄王の評価

荘襄王は、呂不韋あっての人物だと言えます。

荘襄王が秦王になるきっかけを作ったのは、呂不韋であり、呂不韋がいなかったら荘襄王は、秦王になる事も出来なかったはずです。

ただし、荘襄王は秦王に即位してからは、大火なくやり遂げた様に思います。

荘襄王が亡くなった時も、秦王政が即位し、王朝はスムーズに運営された様に感じました。

それにしても、荘襄王はへの捨て駒とも言える人質から、秦王に即位するなど激動の人生を送ったと言えるでしょう。

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