その他 三国志

梁興(りょうこう)は敗残兵を率いて戦い抜くも敗れる

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名前梁興(りょうこう)
生没年生年不明-212年
時代後漢末期、三国志
年表211年 潼関の戦い
画像三国志(コーエーテクモゲームス

梁興は涼州軍閥の一人であり、潼関の戦いに参戦した記録もあります。

潼関の戦いでは梁興は馬超や韓遂らと共に曹操軍と戦いますが、結局は敗れてしまいました。

梁興は戦いに敗れた後も屈することなく、敗残兵を率いて戦う事になります。

潼関の戦い以後の梁興に関しては、敗残兵を率いて各地を暴れ回った話があります。

それでも、梁興は鄭渾に斬られ最後を迎えました。

尚、梁興は涼州軍閥の一人であり、出身は安定とも不明とも言われていますが、後漢王朝で外戚として権力を握った梁商、梁冀の子孫などではないか?とも考えられています。

因みに、梁冀は権力を握り悪名高い人物でしたが、宦官の協力を得た桓帝により殺害された話があります。

それ以来、権力の座から遠のきますが、子孫が梁興ではないか?と考えられているわけです。

 

潼関の戦いで徐晃を急襲

曹操は張魯討伐を宣言しますが、関中では曹操が張魯を討伐すると見せかけて、実は涼州勢を駆逐するのが狙いではないか?と噂されます。

不安になった軍閥らは馬超や韓遂を中心として、涼州連合を結成し曹操と戦う事となります。

涼州軍は馬超、韓遂、梁興、楊秋、李堪、成宜、侯選、程銀、張横、馬玩で成り立っており、この中に梁興もいたわけです。

涼州軍と曹操軍の間で、潼関の戦いが勃発しますが、曹操は黄河を渡る事が出来ずに悩み徐晃の相談すると、徐晃は次の様に述べました。

徐晃「曹操様がここで兵力を誇示しておられるのに、賊軍(涼州軍)は、別軍を使い蒲阪を守備しています。

私が思うに涼州軍は思慮がありません。

私に精鋭の兵を貸してくれれば、蒲阪津を渡り、我が殿の為に先に陣営を設置し、敵の背後を断ちましょう。

これが成功すれば賊軍を捕える事が出来ます」

曹操は徐晃に四千の歩兵や騎兵などの精鋭を与えました。

徐晃が蒲阪津を渡ろうとすると、梁興が徐晃の軍に攻撃を仕掛けて来たわけです。

この時の梁興の軍は五千だった話があり、徐晃の軍よりも兵数で勝っていたのでしょう。

しかし、徐晃は生涯無敗の武将であり、梁興の軍は破れ曹操軍に渡河を許す事になります。

梁興が敗れ、後に曹操配下の賈詡の離間の計もあり、馬超と韓遂が仲違いを起こし、涼州軍は敗れ去りました。

楊秋などは曹操に降伏した話もありますが、梁興は、その後も戦い続ける事になります。

 

敗北後も戦い続ける

敗残兵を率いて戦う

梁興は潼関の戦いで敗れた後も、粘り強く戦い続ける事になります。

鄭渾伝によると「梁興らが官民五千余家を取り込み略奪を行った」とあります。

この時の梁興のゲリラ戦法が神出鬼没で巧みだったのか、多くの県で被害が出ており、対処する事が出来なかったわけです。

県の役所が郡都に寄留するなど、梁興は多いに恐れられる事になります。

梁興に恐怖した役人らは、役所を要害の地に移すべきだと主張しました。

しかし、鄭渾は「梁興の軍は敗残兵に過ぎないから恐れるに足りない」と述べます。

鄭渾は梁興に対抗する為に、城郭の修理を行い防御施設を整えました。

ここにおいて鄭渾と梁興の戦いが始まります。

 

鄭渾の巧みな戦略

鄭渾は人民に梁興を捕えさせるべく信賞必罰を明確にしたとあります。

さらに、手に入れたものの7割を与えるという、破格の恩賞を付けたわけです。

これにより人民は奮い立ち、自ら進んで賊を捕えようとします。

人民は婦女や財宝を大量に賊から奪いました。

梁興に味方する者の中で妻子が捕らえられてしまった者は、鄭渾に降伏を願い出る様になります。

鄭渾は最終的に妻子を帰した事で、今度は賊同士が争う事となります。

賊同士でも恩賞欲しさに、お互いを捕えようとする者が現れたのでしょう。

また民衆の中でも名が通っている者を派遣し賊を説得した事で、さらに梁興の軍は縮小しました。

 

梁興の最後

鄭渾の説得が功を奏した事で、梁興は状況が悪くなっていると悟ります。

梁興は恐れを成し、自分に味方する者達を鄜城に集めました。

分散してしまっては、各個撃破されると思ったのか、鄜城に集結したのでしょう。

ここにおいて曹操も本腰を入れて梁興征伐を完了させようと夏侯淵、張郃、徐晃などを差し向ける事にしました。

この時に、梁興に味方する者は少なく、梁興は圧倒的に不利な状態だったのでしょう。

鄭渾伝によると、先頭に立って指揮を行った鄭渾が梁興を斬ったとあります。

ただし、徐晃伝には徐晃が梁興を斬った様な記録がなり、鄭渾が斬ったのか徐晃が梁興を斬ったのかは分からない状態です。

それでも、正史三国志のあちこちで梁興が斬られた記述があり、西暦212年に梁興がこの世を去った事だけは間違いないのでしょう。

梁興は見方によれば、涼州軍の中でも孤軍奮闘し、最後まで戦い抜いたと見る事も出来るはずです。

正史三国志だと「斬られた」記録だけが残っていますが、実際には梁興が最後まで粘り戦った様にも感じました。

 

梁興の能力値

三国志14統率61武力65知力19政治21魅力26

 

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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